1962年、阪神タイガースに入団すると、当初はコントロールに問題を抱え、苦戦するも、杉下茂コーチによる徹底指導(下半身強化)で、みるみるうちにその才能を開花させると、
1964年には、29勝9敗、防御率1.89で、最多勝、最優秀防御率、沢村賞(外国人初)を獲得し、阪神の2年ぶりのリーグ優勝に大きく貢献するほか、1965年6月28日の巨人戦では、外国人投手初のノーヒットノーランも達成した、ジーン・バッキー(gene bacque)さん。
今回は、そんなジーン・バッキーさんの若い頃(米マイナーリーグ時代)から現役引退までの活躍や経歴を時系列でご紹介します。
ジーン・バッキーは25歳の時に日系人チーム「ハワイ朝日軍」でプレーしていた
ジーン・バッキーさんは、1957年、サウスウエスタン・ルイジアナ大学を卒業すると、マイナーリーグでプレーしていたそうですが、
1962年には、3Aハワイ・アイランダーズに在籍するも解雇されてしまい、その後は、ノンプロの日系人チーム「ハワイ朝日軍」でプレーしていたそうです。
1962年、阪神タイガースに入団すると、長い手足をくねらせるようなフォームから、速球と右打者の胸元をえぐるシュートを駆使して、長嶋茂雄選手や王貞治選手らと名勝負を繰り広げ、1964年には、シーズン29勝を記録して外国人初 …
ジーン・バッキーは25歳の時に阪神タイガースに入団していた
そんなジーン・バッキーさんは、「ハワイ朝日軍」のオーナーのエンゼル・マエハラ代表に阪神タイガースに売り込まれ、
(シーズン中で渡米することができなかった)阪神の藤本定義監督より依頼を受けたスポーツニッポンの記者・有本義明さんに投球を見てもらったところ、長身から投げ下ろす速球を見初められたそうで、
早速、入団テストを受けるために来日すると、見事、合格し、1962年7月21日に阪神タイガースに入団します。
ちなみに、入団テストでは、長身から投げ下ろす速球は威力があったものの、ノーコンだったことから、藤本定義監督以外は全員反対したそうですが、藤本定義監督の強い希望で合格したのだそうです。
大学卒業後、マイナーリーグでプレーするも、1962年には、在籍していた3Aハワイ・アイランダーズを解雇され、その後、日系人チームの「ハワイ朝日軍」(ノンプロ)でプレーしていたという、ジーン・バッキー(gene bacqu …
ジーン・バッキーが25歳~26歳(阪神タイガース入団1年目~2年目)の時はコントロールに問題を抱え思うような成績が残せなかった
そんなジーン・バッキーさんは、家賃1万3000円の木造二間のアパートに妻のドリスさんを呼び寄せ、日本での暮らしをスタートさせたそうですが、
入団当初はコントロールに問題を抱え、途中入団した1年目の1962年は1勝も出来ず3敗、翌1963年も8勝5敗と思うような成績が残せず、
梶岡忠義投手コーチの指導を熱心に受け、渡辺省三投手や制球力に優れた小山正明投手の投球を研究したそうです。
1962年7月18日、阪神の入団テストを受けるため来日すると、長身から投げ下ろす速球は威力があったものの、ノーコンで、周囲には使い物にならないと言われるも、藤本定義監督にその才能を見出され、合格したという、ジーン・バッキ …
ジーン・バッキーは26歳(阪神タイガース入団2年目)の時に杉下茂新コーチの直談判で解雇を免れていた
そして、入団2年目の1963年オフには、阪神が”世紀のトレード”と言われる小山正明投手と山内一弘選手のトレードを実施し、ジーン・バッキーさんも解雇されるところだったそうですが、
“フォークの神様”と称された杉下茂新コーチが、
投手陣をやり繰りできない。バッキーは残してくれ
と、球団と直談判し、ジーン・バッキーさんは解雇を免れたのだそうです。
ジーン・バッキーは27歳(阪神タイガース入団3年目)の時に最多勝・最優秀防御率・沢村賞を獲得し阪神の2年ぶりのリーグ優勝に大きく貢献していた
そして、入団3年目の1964年(ジーン・バッキーさん27歳)、杉下茂コーチから、下半身強化のための走り込みや投球方法の徹底指導を受けると、
みるみるうちに才能を開花させ、このシーズン、29勝9敗、防御率1.89で、最多勝、最優秀防御率、沢村賞(外国人初)を獲得し、阪神の2年ぶりのリーグ優勝に大きく貢献したのでした。
家賃1万3000円の木造二間のアパートに住み、日本での生活をスタートさせた、ジーン・バッキー(gene bacque)さんは、入団当初はコントロールが悪く、2年目のオフには、貧打戦を打開したい阪神球団の方針で解雇されそう …
長身から投げ下ろす速球やナックルボールに加え、上手や横手からの変幻自在な投球術を駆使し、3年目の1964年には、29勝9敗(最多勝)、防御率1.89(最優秀防御率)の活躍で、阪神のリーグ優勝に大きく貢献した、ジーン・バッ …
ジーン・バッキーは31歳(阪神タイガース入団7年目)の時に王貞治に死球と危険球を連発したことで乱闘となり右手親指を複雑骨折していた
そんなジーン・バッキーさんは、その後も、5年連続で2桁勝利を続けるなど、安定した成績を残していたのですが・・・
入団7年目の1968年9月18日(ジーン・バッキーさん31歳)、巨人戦で王貞治選手に対し、1回の第1打席で死球を投げると、4回にも厳しい球(ブラッシュボール)を連続投球したことから、
これに激昂した巨人の荒川博打撃コーチがベンチから飛び出しててジーン・バッキーさんに掴みかかり、左太ももにスパイクでキックを見舞うと、
ジーン・バッキーさんもこれに反撃して荒川博コーチの頭を右手で殴ったのですが、これにより、自身の右手親指を複雑骨折し、全治3ヶ月の重傷を負ってしまったのでした。
1964年には、29勝9敗、防御率1.89と、最多勝、最優秀防御率、沢村賞を獲得する活躍で、阪神のリーグ優勝に大きく貢献すると、その後も5年連続で2桁勝利を続けるなど、安定した成績を残していた、ジーン・バッキー(gene …
ジーン・バッキーは31歳(阪神タイガース入団7年目)の時に近鉄に金銭トレードされていた
ただ、ジーン・バッキーさんは、荒川博打撃コーチとはすぐに仲直りし、王貞治さんとも遺恨はなかったそうですが、
この骨折により、1968年シーズンを棒に振ってしまい、同年11月9日には、近鉄に金銭トレードされてしまいます。
1968年9月18日、ダブルヘッダー第2試合の巨人戦(甲子園)で、王貞治選手に死球と危険球を連発したことから、怒った巨人の荒川博打撃コーチに蹴りつけられ、殴り返すも、右手の親指を複雑骨折した、ジーン・バッキー(gene …
ジーン・バッキーは32歳の若さで現役を引退していた
その後、ジーン・バッキーさんは、1969年には、ケガが完治し、4月13日の西鉄戦で先発復帰(2失点完投するも敗戦)するのですが・・・
その後7連敗を喫すると、そんな中、7月3日のロッテ戦で腰を傷め、8月には椎間板ヘルニアの手術を受けるも、復調せず、1969年シーズンは0勝7敗に終わり、近鉄から解雇されてしまったのでした。
そして、9月25日、失意のままアメリカに帰国し、11月25日、32歳という若さで現役を引退したのでした。
1962年、阪神タイガースに入団すると、1964年には、最多勝利、最優秀防御率、沢村賞(外国人選手初)を獲得するほか、阪神と近鉄で、通算100勝、105完投、22完封、防御率2.34という素晴らしい成績を残した、ジーン・ …