大学卒業後、マイナーリーグでプレーするも、1962年には、在籍していた3Aハワイ・アイランダーズを解雇され、その後、日系人チームの「ハワイ朝日軍」(ノンプロ)でプレーしていたという、ジーン・バッキー(gene bacque)さんは、やがて、「ハワイ朝日軍」のオーナーのエンゼル・マエハラ代表に阪神タイガースに推してもらい、阪神・藤本定義監督に依頼された、スポーツニッポンの記者・有本義明さんに投球を見てもらうと、早速、入団テストを受けるため来日したそうですが・・・

「ジーン・バッキーはマイナーリーグを解雇されていた!」からの続き

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スポーツニッポンの記者・有本義明に速球からのナックルボールを見初められた

阪神・藤本定義監督に依頼され、オアフ島の空き地でバッキーさんの投球を40球ほど見た、スポーツニッポンの記者・有本義明さんは、バッキーさんの長身からの速球に加え、ナックルボールがおかしな変化をして、「ハワイ朝日軍」のマサ・シンタニ捕手が捕ることができなかったことから、「これは使える」と思ったそうで、

一人では自信がなかったそうですが、同行してくれた法政大学の田丸仁監督も同意見だったことから、さっそく、阪神に「キワメテロウホウ」(極めて朗報)と、電報を打ったそうです。

結婚したばかりで働きたかったことと野球を辞めたくなかったことから日本行きを承諾

また、バッキーさんも、3Aハワイ・アイランダーズで1A降格の通告を受ける2日前に結婚式を挙げたばかりだったことから、ぜひ日本で働きたいと言ったそうで、

バッキーさんは、2018年、サンケイスポーツの取材で、その時のことを、

正直、日本のプロ野球の知識はなかった。でも、迷いはなかった。米国にいても先はなかったし、あのチャンスに賭けるしかなかった。とにかく野球がしたくて、24歳で大好きな野球をやめたくなんかなかった。

と、語っています。

阪神の入団テストを受けるために来日

こうして、バッキーさんは、「ハワイ朝日軍」でバッテリーを組み、前年まで阪神に在籍していた、藤重登選手に紹介状を書いてもらい、入団テストを受けるために、1962年7月18日に来日したそうですが、

伊丹空港に迎えに行った、阪神球団の多賀井さんによると、バッキーさんは多賀井さんの手をギュッと握って、「よろしくお願いしますョ」と何度も繰り返したそうで、

多賀井さんは、後に、

彼は本当にひたむきだった。あの気持ちが成功の第一歩だと思う

と、語っています。

(ちなみに、バッキーさんは羽田空港を経て伊丹空港に行ったことから、スポーツニッポンの記者・有本義明さんは、羽田空港に出迎えに行き、再会を喜び合ったそうですが、有本さんは、阪神との約束で、バッキーさんのことは、スクープにもかかわらず、記事にはしなかったそうです)

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入団テストではノーコンも藤本定義監督の意向で合格

さておき、バッキーさんは、藤本定義監督が遠征から帰るのを2日間待ち、7月20日、21日の2日間、川崎重工のグラウンド(2軍用の練習グラウンド)で、藤本監督が見守る中、入団テストを受けたそうですが・・・

191センチの長身から投げ下ろす速球は威力があるも、ノーコンで、辻恭彦(ダンプ)捕手が、右に左にかえる跳びのように追いかけたそうで、周囲からは、「使いモノにならん」と言われたのだそうです。

ただ、藤本定義監督だけは、「いや、なんとかなる」と、頑としてそれらの声を受け付けなかったそうで、藤本監督の意向で合格し、7月21日に入団となったのだそうです。

(契約金はなく、年俸はわずか80万円(36万円とも)だったそうですが、バッキーさんは本人は、メジャーリーグ並で驚いたと語っています)

「ジーン・バッキーは当初は甲子園球場裏の木造二間のアパート暮らしだった!」に続く

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