1954年の日本シリーズ(西鉄戦)第7戦では、高校時代からの恩師で、中日ドラゴンズの監督だった天知俊一さんを日本一にさせたい一心で、普段は投げ控えていたフォークボールを40球以上投げたという、杉下茂(すぎした しげる)さんですが、ほとんどの中日ドラゴンズの選手が、天知監督に同様の思いを持っていたといいます。

「杉下茂がたった一度だけフォークボールを多投した試合とは?」からの続き

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中日ドラゴンズの選手たちが天地俊一に監督就任を要請していた

天知俊一監督を日本一にしたい一心で、1954年の日本シリーズ(西鉄戦)第7戦では、普段は投げ控えているフォークボールを全投球の半分(40球)以上投げたという杉下さんですが、

実は、杉下さんだけではなく、中日ドラゴンズの殆どの選手が天知監督を慕っていたそうで、天知監督は1949年に中日の監督に就任していたのですが、1951年のシーズン後に辞任していたそうで(実権のない総監督に異動)、そんな中、1953年の秋には、西沢道夫選手や野口明選手ら主力選手が天知さんの自宅に通い詰めて監督就任を要請していたのだそうです。

天知俊一は選手の気持ちを察してくれる監督だった

すると、当初は体調不安から断っていた天知さんも、最終的には折れ、監督になることを承諾したそうですが、

天知さんが人望を集めた理由について、杉下さんは、

一番選手の気持ちを察していた監督でしたよ。給料も家の方には全然入れずに全部選手に使ってましたから。中村区の遊郭に行くのに、(財布が)スカンピンなんで『監督、少しください』と言ってお金をもらって遊びに行ってた連中もおりました。

遠征先でも監督室なんてものは無く、選手と同じ大部屋に泊まってましたからね。そこで試合に出てないような若い選手とも親しげに麻雀して、夜も選手が全員帰ってくるまで寝てなかったですね

と、語っています。

(天知さんほど選手に寄り添い、選手と一体になった監督はいなかったそうで、選手たちは、そんな天知さんを、親しみを込めて「アマっちゃん」と呼んだそうです。また、そんな固い絆で結ばれた中日ドラゴンズは「天知一家」と呼ばれていたそうです)

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中日ドラゴンズの選手たちはチームのためではなく天知俊一のために優勝を目指していた

さておき、杉下さんら選手たちは、

オレたちはドラゴンズのために優勝するんじゃない。アマっちゃんのために優勝するんだ!

を合言葉に、選手一丸となって最強のライバルだった巨人を制し悲願のリーグ優勝を遂げると、日本シリーズでも西鉄ライオンズを下し、日本一に輝いたのでした。

(ただ、天知監督は、同年オフには辞表を提出し、慰留にも応じなかったそうです。また、中日ドラゴンズがリーグ優勝と日本一を達成したシーズンは、2023年現在、この1954年だけです)

「杉下茂と金田正一はお互い認め合う仲だった!」に続く


天地俊一監督(左)と杉下さん(右)。

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