秋田県立秋田工業高等学校時代の恩師である野球部部長・安藤晃さんの口利きで、東京芝浦電気の府中工場野球部(東芝府中)のセレクションを受けると、見事合格し、東京芝浦電気の府中工場に臨時工として入社した、落合博満(おちあい ひろみつ)さんは、東芝府中の広いグラウンドで、生まれて初めて、無我夢中になって野球に打ち込んだそうです。

「落合博満は東洋大学中退後はプロボウラーを目指していた!」からの続き

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東京芝浦電気・府中工場野球部(東芝府中)でも、いきなり4番に抜擢されていた

1973年11月1日、東京芝浦電気・府中工場野球部(東芝府中)のセレクションを受け、見事合格した落合さんは、1974年1月、東京芝浦電気・府中工場に臨時工として入社し、同工場の社会人野球チーム・東芝府中に加入しているのですが、

当時、東芝府中野球部監督だった武田泰紀さんは、初めて落合さんの打球の勢いと飛距離を見た時、とても驚き、すぐに落合さんを4番に抜擢したそうで、

武田さんは、その時のことを、1992年、「週刊宝石」(5月7日・14号)で、

サボリ癖のことは聞かされていましたよ。でも納得するまで黙々と練習してましたね

落合は20歳で入社。同期の新人は彼よりも年下だったんですが、トンボかけもタマ拾いも、皆と同じようにやってましたよ。

肩と太腿を痛めていると聞いてはいたんですが、本人は何も言わないので練習も皆と同じ。最後にグラウンドを30周走るのですが、初めの頃はよく吐いていましたね

と、語っています。

東芝府中では生まれて初めて無我夢中で野球ができた

ちなみに、東芝府中は弱小チームだったこともあり、秋田県立秋田工業高等学校時代や東洋大学時代と違って、封建的な感じがなく、好きに野球をやらせてもらえたそうで、

落合さんは、自ら率先して野球に励むことができ、東芝府中の広いグラウンドで、生まれて初めて、無我夢中になって野球に集中できたのだそうです。

(毎日の練習で、落合さんの錆びついた身体は次第に研ぎ澄まされ、バッティングはますます凄みを増していったそうで、ライト側へは、しばしば、打球が飛び過ぎて防球ネットを飛び越えてしまったため、東芝府中のグラウンドには、従来より6メートル高くした「落合ネット」が設置されたのだそうです)

東京芝浦電気の府中工場では朝8時10分から夕方5時まで仕事をしてから野球の練習をしていた

そんな落合さんは、東京芝浦電気の府中工場では、電力システム制御部電力配電盤課に所属となったそうで、しばらくは、毎日朝8時10分から夕方5時までトランジスタラジオの基板を組み立てる仕事をして、

その後、野球の練習をしていたそうですが、この頃は、野球でやっていこうとは全く思っていなかったそうです。

(会社の寮から野球練習場まで、ボロ自転車で通っていたそうです)

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入社1年目と2年目に会社を辞めたくなるも、姉に怒られたり泣きつかれたりして思いとどまっていた

それでも、落合さんは、入社して1年後には、給料が安いなどの理由で(初任給は3万5000円だったそうです)、会社を辞めたくなったそうで、その時は、お姉さんに怒られ、思いとどまったそうですが、

さらに1年が経った頃に、また、辞めると言ったそうで、この時も、お姉さんに泣きつかれ、思いとどまったそうです。

そして、入社3年目も辞めたくなったそうですが、さすがに、この時は、辞めるとは言えなかったそうです。

「落合博満は阪神タイガースにドラフト指名の可能性を伝えられていた!」に続く

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