川上哲治前監督の緻密な「管理野球」を一掃し、ホームランで観客を沸かせるような野球を目指して、補強と育成に積極的に取り組んだという、長嶋茂雄(ながしま しげお)さんは、1976年、1977年には、2年連続リーグ優勝を果たすも日本一にはなれず、1978年、1979年は再び成績が低迷し、苦しい日々が続きます。

「長嶋茂雄は新浦寿夫をいくら打たれても登板させ育成していた!」からの続き

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補強と育成により2年連続リーグ優勝を果たすも日本一にはなれなかった

自ら才能を見込んだ若手の新浦寿夫投手を鍛えるため、どれほど打たれようとも試合で使い続けたという長嶋さんは、ついに、1976年には、5月に14連勝、8月には13連勝を記録し、リーグ優勝を果たすのですが、

(同一監督の最下位からの優勝は史上初)

日本シリーズでは、阪急ブレーブスに3勝4敗で敗れてしまいます。

そこで、翌1977年には、シーズン中に、巨人キラーと言われていたヤクルトの浅野啓司投手を、倉田誠投手とのトレードで獲得するなどして、より強化すると、全球団に勝ち越し、2位に15リーグ差をつけて連覇を達成するのですが・・・

やはり、日本シリーズでは、山田久志さんや福本豊さんを擁する阪急ブレーブスに、1勝4敗で、2年連続で敗北を喫してしまいます。

当時の巨人には日本一でなければ勝ったことにはならないという暗黙の了解があった

ちなみに、高橋善正さんは、その頃の長嶋さんについて、

川上さんの緻密な野球に比べ、長嶋さんはホームランで打ち勝つような、ファンが喜ぶ派手な野球を好んでいました。それが短期決戦ではうまくはまらなかったんです。

当時の巨人には、日本一でなければ勝ったことにはならないという暗黙の了解がありました。表には出しませんでしたが、監督は相当悩んでいたようです

と、明かしています。

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2年連続リーグ優勝から一転低迷するほか「江川卓・空白の一日」事件で批判の矢面に立たされていた

さておき、翌1978年は、一転、シーズン当初から低迷が続き、8月後半には、一時的に首位に立つものの、結局、2ゲーム差でヤクルトに敗れ、リーグ優勝を逃してしまいます。

また、シーズンオフには、「江川卓・空白の一日」事件で、長嶋さんが、批判の矢面に立たされると、

(「江川卓・空白の一日」事件とは、フロントが江川卓投手を獲得するため、ルールのスキを突いて、エースの小林繁投手を阪神に移籍させた事件。ただ、長嶋さんは、小林さんを気遣い、「いつかまた、同じユニフォームを着て戦おう」と電話を入れるほか、翌年、小林さんが肘を故障した際には、敵チームであるにもかかわらず、巨人時代の専属マネージャーにポケットマネーを手渡し、「大阪で小林を治してやってくれ」と頼んだといいます)

5年目の1979年も、巨人は低迷し、チームは浮上の気配もなく、7月には早々に白旗を揚げるような状態となり、結果、5位に終わってしまったのでした。

「長嶋茂雄は異例の秋季(地獄の伊東)キャンプを行っていた!」に続く

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