高校時代、4番エースで「甲子園の申し子」と呼ばれる活躍をし、人気を博した、藤村富美男(ふじむら ふみお)さんは、高校卒業後、法政大学に進学しようと思っていたところ、設立したばかりの大阪(阪神)タイガースから熱心な誘いを受け、お父さんとお兄さんに強引に契約書にサインをさせられて、入団したそうですが、1年目から本塁打王に輝く活躍をします。

「藤村富美男は高校の時4番エースで甲子園の申し子と呼ばれていた!」からの続き

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法政大学に進学するつもりも父と兄の強引な勧めで大阪(阪神)タイガースに入団

藤村さんは、呉港中学校を卒業後は、ライバルだった広島商業学校の鶴岡一人さんに誘われ、鶴岡さんと同じ法政大学に進学することが決まりかけていたそうですが、

(同年、職業野球が創設され)設立したばかりの大阪(阪神)タイガースに熱心に誘われると、お父さんとお兄さんの強引な勧めにより、1935年11月11日、大阪(阪神)タイガースと契約し入団したそうです。

(藤村さんは、球団史上4人目の選手で、月給は100円(当時の1円は2000~3000円前後で、大卒初任給は90円(現在の20万円相当)だったそうです)

次兄をマネージャーとして就職させるため当時ヤクザ稼業と思われていたプロ球団と契約させられていた

ちなみに、当時は、六大学野球全盛の時代で、創設されたばかりでリーグ戦も開催されていなかった職業野球(プロ野球)はヤクザ稼業と思われていたそうで、

藤村さんのような有望な旧制中学生がプロ球団と契約し入団する事は、人生を誤るようなものと思われていたそうですが、

藤村さんのお父さんとお兄さんは、当時職についていなかった藤村さんの次兄を、藤村さんのマネージャーにすることを条件に阪神からの誘いを受け入れたのだそうです。

(藤村さんは法政大学に進学できないことをとても残念がったそうです)

1年目の1936年に初代本塁打王に輝く

それでも、藤村さんは、翌1936年4月29日、日本職業野球の開幕戦(甲子園球場)の名古屋金鯱軍戦に先発すると、9回を1安打11奪三振4四球の快投で勝利するほか、

同年秋には、2本塁打で初代本塁打王に輝くと、翌年の1937年4月8日の大東京戦では、5回コールドながらノーヒットノーランを達成します。

(当時、職業野球では、投手と打者は明確に分業できておらず、投手が中軸を打つことも珍しくなかったそうで、入団当初、藤村さんは投手と二塁手を兼任していたそうです)

除隊後にプロ野球に復帰するも2割2分と最低な成績だった

ただ、1939年、太平洋戦争のため、応召され、1941年に太平洋戦争が始まると、藤村さんは、パプアニューギニアなど南方戦争に派遣されたそうで、1943年に除隊となり、夏のシーズンからプロ野球に復帰するのですが、

同僚の景浦將選手と1、2塁を組むも、4年半に及ぶ長いブランク(軍隊生活)で精彩を欠き、「1・2塁間狙え!」「藤村狙え!」と厳しい野次が飛ばされたほか、打棒も振るわず、34試合で2割2分、本塁打0と、プロ入り以来最悪の成績に終わってしまいます。

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1944年には打率3割1分5厘で阪神の優勝に貢献

それでも、翌1944年春には、打棒が戻り、戦力の落ちた阪神で4番打者に定着すると、3割1分5厘で打率5位、打点25で打点王を獲得する活躍で、大阪(阪神)タイガースの優勝に貢献したのでした。

(この夏のシーズンから若林忠志監督の指示で本格的に三塁手へコンバートされたそうです)

(秋のシーズンは、戦局悪化で中止となったため、夏のシーズンが戦前最後のシーズンとなり、阪神がプロ野球最後の勝率8割台(8割1分8厘)での優勝となったそうです)

「藤村富美男は「物干し竿」バットでホームランを量産していた!」に続く

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