1950年、もともと1リーグ制だった日本のプロ野球が2リーグに分裂し、新球団「毎日オリオンズ」(毎日新聞)に、兼任監督だった若林忠志選手をはじめ、別当薫選手、土井垣武選手、呉昌征選手などの主力選手が次々と引き抜かれる中、タイガースに残留すると、同年にはセ・リーグ最初の首位打者を獲得するほか、1953年には、プロ野球史上初の2試合連続満塁ホームランを放つなど、弱体化した大阪(阪神)タイガースを支え続けた、藤村富美男(ふじむら ふみお)さんですが、闘志を露わにする性格だったことから、審判ともトラブルがあったといいます。
「藤村富美男は主力選手でひとり大阪(阪神)タイガースに残留していた!」からの続き
中日の捕手・河合保彦の捕球を巡り激しく抗議
1954年7月25日、大阪球場で行われた阪神対中日で、阪神は、10回裏、2対5と中日にリードされている中、先頭打者の代打・真田重男選手が、カウント2ストライク2ボールとなった次の球をスイングすると、ファウルチップとなったそうで、その球を中日の河合保彦捕手が捕ったそうですが、直接捕ったのか、ワンバウンドで拾い上げたのか微妙だったそうです。
そのため、杉村球審が塁審を集めて協議すると、結果、直接捕球したとし、「空振り三振」をコールしたのですが、この判定に、一塁コーチャーズボックスにいた松木謙治郎監督をはじめ、タイガースナインは、杉村球審に詰め寄り、ファウルだと、激しく抗議をしたそうです。
松木謙治郎監督が身代わりとなって退場処分を受けるも・・・
そんな中、選手兼助監督だった藤村さんは、ベンチから飛び出し、杉村球審の肩を数回小突いたそうで、杉村球審には、「風呂に行け」と婉曲的に退場宣告されたそうですが、
その瞬間、松木監督が杉村球審につかみかかり、足払いを仕掛け、自分が身代わりになろうしたそうで、松木監督は、杉村球審に「退場!」をコールされたのだそうです。
(藤村さんはこの試合まで1014試合連続出場を続けており、退場になって出場停止処分を受けたら、これが途切れてしまうため、松木監督はとっさに、自分が退場になって事態を収拾しようとしたのでした)
すると、興奮した観客が数百人グラウンドに乱入。1時間7分にわたって試合は中断されたのだそうです。
しれっと打席に入ろうとするも杉村球審から改めて退場を言い渡されていた
そして、ようやく、試合が再開されると、金田正泰さんが監督代行を務め、二死後、一、三塁と 一発同点の場面で、4番・藤村さんの打順が回ってきたそうで、藤村さんはしれっと打席に入ろうとしたそうですが・・・
杉村球審がこれを認めず、結局、藤村さんが改めて退場を宣告されると、事情が分からない観客の怒りが爆発。今度は1000人以上の観客がグラウンドになだれ込んだそうで、ついに、事態の収拾が付かなくなり、ホームチームのタイガースに責任があると裁定され、没収試合となったのだそうです。
(当時、甲子園球場にはナイター設備がなかったことから、大阪球場でナイターが行われていたそうですが、大阪球場の照明も薄暗く、度々、誤審が発生しており、前年にも、杉村球審は、大阪球場のナイターで誤審していたそうで、ファンの記憶には「杉村」の名前が刻み込まれていたのだそうです)
「藤村富美男は松木謙治郎監督にかばってもらっていた!」に続く