世界のホームラン王として国際的に有名になったことで、日本国籍の取得(帰化)も、中華人民共和国(中国)籍の取得も、政治的な意味を帯びてしまうことを危惧し、お父さんの「中華民国籍」のままでいるという、王貞治(おう さだはる)さんですが、今回は、そんな王さんの両親をご紹介します。
「王貞治の国籍は中華民国籍!日本国籍or中国籍にしない理由とは?」からの続き
父親は中国から日本に出稼ぎに来て中華料理店を経営していた
王さんのお父さんは中国(中華民国)人で、王仕福さんというそうで、中国の浙江省青田県にある四都という山村で誕生すると(日本では明治時代)、20歳頃(大正時代の初め頃)、先に日本へ来ていた親類縁者を頼って、日本に出稼ぎに来たそうで、
(青田県四都は、「都」という漢字がついているものの、川の対岸に渡る橋はなく、医者にかかるにも、いくつも山を越えなければならないほどの寒村だったそうで、戦前から、多くの村人が日本やヨーロッパに移住していたそうです)
同胞である浙江省から出稼ぎに来た人のコミュニティがあり、町工場が軒を連ねる、東京・墨田区(当時は向島区と本所区)に落ち着くと、最初は工場に勤めていたそうですが、いつしか料理を覚えたそうで、もともと別の人が経営していた中華料理店「五十番」を名前ごと譲り受けたそうです。
母親は19歳で両親が他界して家の主となり東京に奉公に出ていた
また、王さんのお母さんは日本人で、登美さんというそうで、富山県の漆塗り職人の長女として誕生したそうですが、石川県の特産物である輪島塗の仕事などを請け負っていたお父さん(王さんの祖父)が働き盛りに亡くなり、まもなく、お母さん(王さんの祖母)も後を追うようにして亡くなったことから、
19歳で家の主(あるじ)となり、弟妹の生活を支えなければならなくなったそうで、東京に奉公に出ていたそうです。
両親は真面目に働き事業を拡大していた
そんな仕福さんと登美さんは東京で出会い、一緒に暮らし始めたそうで、
(登美さんは、仕福さんが外国人であることを理由に、親族や周囲の人から正式な結婚を許してもらえず、終戦後、ようやく正式に結婚することができたそうです)
共に八広(現在では東京スカイツリーを仰ぎ見ることができる場所)で中華料理店「五十番」を切り盛りすると、
近所の人が驚くほど真面目に働き、(最初は何坪もないほどの広さだったそうですが)中華料理店の2号店を出すなど順調に事業を拡大したそうで、
その後は、中華料理店だけではなく、カツライスやカレーなどの洋食も作るようになり、喫茶コーナーを併設するまでになったそうです。
(さらには、知り合いの医者の診療所まで同じ屋根の下に入り、ちょっとした「複合施設」になっていたそうです)
父親は戦中戦後はヤミ物資を手に入れるため千葉方面まで仕入れに行っていた
そんな中、戦中・戦後の物資のない時期には、配給品だけではとても商売にならなかったことから、仕福さんは千葉方面などに仕入れに出かけたそうで、
ヤミ物資だったため、何度も没収されたそうですが、それでも仕福さんはめげずに、何度も仕入れに出かけたそうです。
中国人である父親は迫害を受けていた時期もあった
ただ、1923年(大正12年)に関東大震災が起きた時には、朝鮮半島出身者が迫害を受けるようになり、中国出身者に向けられる目も厳しくなったそうで、
仕福さんも中国へ帰らざるを得なくなったほか、戦時中は、収容所のような所に入れられていた時期もあったのだそうです。
(仕福さんが不在の間は、登美さんが店を守っていたそうです)