小学生の頃から野球に夢中になると、中学の時には、高校生が主体の野球チーム「厩四ケープハーツ」で野球をしていたという、王貞治(おう さだはる)さんですが、この時はまだ、野球選手になろうとは思っておらず、お父さんの意向で、電気・機械の技師になろうと考えていたそうです。

「王貞治は中2の時に荒川博から勧められ「左打ち」に転向していた!」からの続き

Sponsored Link

父親の意向で将来は電気・機械の技師になろうと思っていた

中学2年生の時、荒川博さんのアドバイスを受け、以降、左で打つようになったという王さんですが、実は、この時はまだ、プロ野球選手を目指していたわけではなく、お父さんの意向で、電気や機械の技師になろうと考えていたそうです。

というのも、兄・鉄城さんは医師に、王さんは電気や機械の技師にして、故郷である中国に帰り、そこで二人に働いてもらいたいというのがお父さんの夢だったからなのですが、

王さん自身も、勉強もそれなりにできたことから(そろばんでは2級を取り、暗算も得意だったそうです)、技師になるため、高校に進学し、勉強に励もうと考えていたのだそうです。

父親は他界するまで故郷・中国への思いを強く持っていた

そんなお父さんは、王さんが巨人の監督を務めていた1985年(昭和60年)に他界されているのですが、最後まで故郷を忘れることはなく、実際、何度か中国に帰っていたそうで、

日中の国交が正常化する前のことだったため、入国も出国も自由にはできず、それなりの心付けが必要だったそうですが、そんな大変な思いをしてまで帰国するほど、故郷への思いが強かったそうです。

(後に、飛行機を使うようになったそうですが、当初は、中国にいる親類縁者にたくさんのお土産や生活物資を届けるため、船の方が良いと、神戸を経由して船便で渡航していたそうです)

Sponsored Link

父親の夢は息子2人に技術を身につけさせ故郷・中国に帰ることだった

ちなみに、お父さんの故郷の中国浙江省青田県四都という山村は、川に橋がなく、対岸の集落に行くのに、川を大回りしなければならなかったほか、電気も通っていないほど貧しく、

家に帰って来ては、娘(王さんの姉)たちに、「とてもおまえたちの暮らせるところではないよ」と、話していたそうで、後に、お父さんの寄付で橋がかけられたそうですが、

王さんは、著書「もっと遠くへ 私の履歴書(日本経済新聞出版)」で、

兄・鉄城と私に人の役に立つ技術を身につけさせ、中国に帰ることが父の夢だった。その意を受け、兄は慶大医学部に進み、医師になった。しかし、私は父の意図とはかけ離れた方向へ進んでしまった。

と、綴っています。

「王貞治が早稲田実業高校に進学した理由とは?」に続く


もっと遠くへ 私の履歴書(日本経済新聞出版)

Sponsored Link