中学生ながら、高校生が主体の野球チーム「厩四ケープハーツ」で野球をしていたという、王貞治(おう さだはる)さんは、当初、左投げ右打ちだったそうですが、中学2年生の時、後の師匠となる荒川博さんと出会い、左打ちを勧められたといいます。

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見知らぬおじさんに「左打ち」を勧められていた

王さんは、中学2年生だった1954年11月末、隅田公園今戸グラウンドで「厩四ケープハーツ」の試合に参加していたそうですが、

王さんが2打席凡退となると、見知らぬ一人のおじさんが割り込んで来て、

坊や、なんで右で打ってるの?

と、話しかけてきたそうで、

(当時、王さんは左投げ右打ちでした)

王さんが、「お兄さんたちが右で打っているのでマネただけ」と答えると、

そのおじさんは、

じゃあ、次は左で打ってみたらどうだい

と、言ったそうで、

言われた通り、次の打席では、左で打ってみると、ジャストミートし、左中間をライナーで破る大きな二塁打となったそうです。

「おじさん」はまだ24歳の荒川博だった

ちなみに、この「おじさん」は、早稲田実業高校、早稲田大学を経て、外野手として「毎日オリオンズ」(現・ロッテ)に入団して2年目(24歳)の荒川博さんだったそうですが、

(中学生の王さんには、荒川さんはとても大人に見えたそうです)

オフだったこの日、たまたま、家の近くをのんびりと自転車を走らせていると、王さんが出場していた「厩四ケープハーツ」の野球の試合に通りがかったそうで、立ち止まって眺めていたのだそうです。

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荒川博のアドバイスで左打ちに転向していた

荒川さんによると、王さんの右打ちでの2打席は、三ゴロ、遊飛(フライ)と、とても見られたものではなかったことから、左打ちを勧めたそうですが、それは、王さんが左で投げていたからで、深い意味はなかったそうですが、

実は、王さんにとっては、これが大きな転機となり、以降、左で打つようになったのでした。

「王貞治が中学生の時は父親の意向で技師になろうと考えていた!」に続く

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