1956年シーズン終了後、阪神ナイン総勢14名により、監督退陣を求める意見書「監督退陣要求書」を野田誠三オーナーに提出されるも、最終的には、「監督退陣要求書」は撤回され、監督続投が決まったという、藤村富美男(ふじむら ふみお)さんですが、14名の中に名前が上がっていた吉田義男さんと小山正明さんは、意外なコメントを残しています。

「藤村富美男は「監督退陣要求書」を阪神ナインに出されるも撤回されていた!」からの続き

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吉田義男のコメント

まずは、「藤村排斥派」のメンバーの一人とされていた吉田義男さんによると、今でもあの騒動はなんだったのか分からないそうで、阪神電鉄本社と球団フロントの抗争が深く関わり、監督を巡る人事抗争に選手が利用されたのでは、と考えているそうで、

(前監督の岸一郎さんから、藤村さんへの交代劇が翌年の騒動につながっていったことから、岸さんもまた、人事抗争の被害者ではないかとも考えているそうです)

著書「阪神タイガース」で、

藤村さんの采配を巡って選手間に不満や疑問が渦巻き、シーズン終了後には、監督退陣を求める意見書を選手会が球団に提出する大騒動になってしまったのだ。

もちろん、私も無関係だったわけではない。中軸選手の呼びかけで、大阪市内の金田さん宅に何度か集まり「タイガースを強くするためにはどうしたらよいのか」をテーマにした話し合いに参加した。

スポーツ紙などの報道によれば、それが〝藤村監督排斥派〟の〝排斥集会〟だったことになるのだが、私は入団4年目、まだ駆け出しの若造が、雲の上の人である「ミスタータイガース」を排斥するもヘチマもない。  

いつの間にか形成されたそういうムードに引きずられて、藤村さんのどこが悪いのか、また誰が何をしようとしているのか、よくわからないままに巻き込まれた感が強い。

それは、同じように排斥派として挙げられていた、渡辺省三、小山正明、三宅秀史らの若手にとっても同じだろう。  
今になって思うのは、明確な意図を持っていた一部の選手の動きとフロントの勢力争いが絡み合い、それに便乗したマスコミが大げさにフレームアップして伝え、騒ぎをさらに大きくした面が否めないのではないか。

と、綴っています。

(この騒動の黒幕だとされている青木一三スカウトは、選手の待遇が一向に向上しないのは、藤村さんに原因があるのではなく、阪神電鉄本社の一部の意向を押しつけている下林常務に原因があると考えていたそうですが、選手が球団常務の辞任を求めるのは筋が通らないことや、監督である藤村さんに、会社に対して待遇改善を要求するように言っても、拒絶されたことがあったため、藤村さんに矛先を向けたと、語っていたそうです)


阪神タイガース

小山正明のコメント

また、吉田さんと同じく、「藤村排斥派」のメンバーの一人とされていた小山正明さんも、インタビューで、

藤村さんに関してはいろいろあるけど、特に忘れられんのは、昭和31年(1956年)の「藤村排斥事件」やな。もう50年以上も前の話やが、鮮明に覚えとる。

金さん(金田正泰さん)が先頭に立って何人か選手が集められ、監督だった藤村さんを除こうとする運動をやった。僕もそれに一枚噛んでたんや。しかし全く違うことを新聞に書かれてしもうた。あたかも僕が先陣を切って藤村さんに反対しているかのようになあ。そんなもん違う、ちゅうねん!

あの年、大崎(三男1953~58年)が25勝を挙げ、渡辺の省さん(渡辺省三1953~65年)が22勝で最優秀防御率のタイトルを獲得する中、僕は17勝で彼らより数字は見劣った。

しかし登板自体は59試合とかなり出てた。先発投手でありながら、リリーフもやってたからな。つまり、今で言えば藤川球児のようなもんや。そうやって先発の尻ぬぐいをした試合が何ぼかあった。

そしてオフの契約更改になり、当時の戸沢球団代表と話をしたとき、こない言われた。「勝ち星が少ない。大崎や渡辺のように20勝したらまた給料弾もうやないか」と。しかし「ちょっと待てよ!」や。

あの頃はリリーフで後ろに回ってやっても全く評価されへんかった。それで勝ち星が少ない、と言われるんだったらリリーフなんか嫌やとなるわな。そう思って代表に「リリーフでそういう使われ方をするのは嫌です。先発に戻してほしい」と言うたのが「小山、藤村(監督)に反旗」となっていった。

僕にすれば、使われ方で勝ち星が少ないと言われたことが一番の問題だったわけで、藤村さんどうこうやなかった。他の選手が何で反発していたのか、僕自身は訳解らんかったんよ。金(金田正泰)さんが個人的な感情を持ってたんやないか、と思っとるんやけど・・・。

その頃、西宮にあった普通の民家の一室を借りて、主力選手が集合したことがあった。これは後で知ったんやが、そこの縁の下に潜り込んで話を聞いていた新聞記者がおったらしい。どこの社やったか忘れたが、えらい執念やで(苦笑)。

昭和31年と言えば、僕がまだプロ4年目の年。とても藤村さんのそばには寄れへんがな。そんなもん、ドスのきいた声で怖いの何のって・・・。とにかく、入団した年(28年)の印象が強烈すぎた。

と、語っており、

若手だった吉田さんや小山さんは、特に藤村さんに不満があったわけではなく、何がなんだか訳が分からないまま、巻き込まれた形となっていたようです。

監督を解任され現役選手として復帰させられていた

ちなみに、1957年のシーズン、藤村さん率いる阪神は2位で終わったのですが、首位の巨人と優勝争いをしたにもかかわらず、藤村さんは監督を解任され、代打要員としての現役選手への復帰を告げられたそうで、

(監督の重責から離れ、現役に復帰することで打線が強化され、優勝を狙えるだろうというのが阪神球団の狙いだったそうです)

翌年の1958年には現役復帰しているのですが、生涯打率3割を保つため、11月末に現役を引退しています。

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吉田義男は自らの不明を責めていた

また、吉田さんは、そんな藤村さんについて、著書「阪神タイガース」で、

在籍23年目、タイガースの歴史とともに生きた「ミスタータイガース」は、昭和33年のシーズン終了後、タテジマのユニホームを脱いだ。選手に専念した42歳のこの年、24試合に出場、26打数3安打1打点を挙げ、燃え尽きた。  

昭和25年首位打者、昭和11・24・28年本塁打王、昭和19・22・23・24・28年打点王。無類の勝負強さとショーマンシップで草創期プロ野球を引っ張った人のフィナーレとしては、あまりにも寂しすぎた。

排斥事件の後味の悪さは残り、私は藤村さんに申し訳が立たなかった。二度とこういうことのないようにしなければ、と自らの不明を責めたものである。

とも、綴っています。

(こうして、阪神がごたついている間に、ライバルの巨人は黄金期に向けて着々と地歩を固め、日本シリーズでは、1956年から3年連続で西鉄に敗れるも、長嶋茂雄さん、王貞治さんを軸にした強化策や、水原茂監督から川上哲治監督への交代がうまく運び、V9時代へつなげているのですが、阪神はというと、この「藤村富美男監督排斥事件」が後々に響いて遅れをとってしまったのでした)

「藤村富美男の現役(プロ野球選手)時代の成績は?二刀流だった!」に続く

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