徳島商業高校のエースとして夏の甲子園で大会通算83奪三振を記録し、中日ドラゴンズに入団すると、11年間で77勝する活躍をし、プロ野球引退後も、「マジカル頭脳パワー!!」の司会や、「世界・ふしぎ発見!」「クイズ!ヘキサゴンⅡ」など多数のバラエティに出演するなど、タレントとしても大成功を収めた、板東英二(ばんどう えいじ)さんですが、実は、幼少期には壮絶な体験をしていたといいます。

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年齢は?出身は?身長は?本名は?

板東さんは、1940年4月5日生まれ(実際は3月31日生まれ)、
(満洲国東安省虎林県(現・中国黒竜江省虎林市)生まれ)
徳島県板野郡板東町(現・鳴門市)の出身、

身長169センチ、
体重70キロ、

血液型はO型、

学歴は、
神戸市立妙法寺小学校
⇒徳島県板東町にあった小学校(転校)
⇒板東中学校
⇒徳島県立徳島商業高等学校卒業

趣味は、サウナ、ゴルフ、

特技は、縄作り、

ちなみに、「板東英二」は本名で、愛称は「板ちゃん(ばんちゃん)」です。

旧満州で誕生し幼少期は裕福な家庭で育つも・・・

板東さんは、戦時中の1940年に、満洲国の間島省(現・吉林省延辺朝鮮族自治州)図們市(ともんし)で高級料理店を経営する両親のもと、4人兄弟(姉2人、兄1人)の末っ子として、虎林という町で誕生すると、裕福な家庭で何不自由なく育ったそうです。

しかし、1945年(昭和20年)8月初め、第二次世界大戦終結直前にソ連軍が満洲に侵攻し、満洲国が崩壊したことから、終戦後は(板東さん6歳)、お母さんに背負われて、3人の兄姉とともに着の身着のまま満州から博多に引き揚げてきたそうです。

日本への引き揚げは命がけだった

また、その道程では、幼い子供をやむなく置き去りにする親の姿や、小さな子供が行き倒れになっている姿を目にしたことから、自分もいつ捨てられるかと恐怖に怯えながら、お母さんのもんぺを片時も離さなかったほか、

板東さんたちは、港へ行くまで、屋根のない貨物用の車両に乗せられたそうですが、貨物車は、いつ止まって、いつ動き出すか分からなかったため、女性たちは、落ちないように子供たちを真ん中に置き、その周りをヒモでお互いの体をくくりつけて囲んだそうで、

貨物車が止まると、女性たちは、車両の下に入り込んで、急いで用を足したそうですが、いきなり動きだし、車両の下から、「ギャー」という悲鳴が聞こえてきたこともあったそうで、板東さんは、その声と何もない原野に沈む夕日が今でも忘れられないそうです。

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引き揚げ船の中ではコレラが流行り次々に死人が出ていた

そして、やっとの思いで港へ着き、博多へと向かう引き上げ船に乗ることができた後も、船内の環境が厳しかったことから、コレラが流行り、次々と死人が出たそうで、亡くなった子供や大人の遺体は毛布にくるまれて、海に流されたそうですが、

板東さんは、その海の上を漂う毛布にくるまれた遺体を見ながら、

もしかしたら自分だったかもしれないなあ・・・

と、ぼんやり考えていたそうです。

「板東英二は中学の時から野球部のエースとして活躍していた!」に続く

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