野球の特待生として徳島商業高等学校に進学すると、1年生の時からエースとして活躍し、2年生の時にはキャプテンとして野球部を牽引した、板東英二(ばんどう えいじ)さんは、3年生の時には、ついに、「夏の甲子園」に出場しているのですが、この年には数々の記録を打ち立てています。今回はそんな板東さんの(二度と破られることはないであろう)記録をご紹介します。
「板東英二は野球特待生として徳島商業高校に進学していた!」からの続き
春季四国大会の準決勝と決勝で41回も投げ抜いていた
まず、板東さんは、1958年4月(高校3年生)、春季四国大会の1回戦(準決勝)で高知商業高校と対戦すると、延長16回を1人で投げぬき、2対1でサヨナラ勝ちしているのですが、
さらには、翌々日の高松商業高校戦にも登板すると、なんと、延長25回を完投するという、驚異的なパワーを見せつけ、準決勝と決勝合わせて41回を投げ抜いています。(試合は0対2で敗退)
すると、そんな板東さんの活躍が、全国紙で報道され、全国の高校野球ファンから、たちまち注目を集めます。
徳島商業高校時代の板東さん。
(ただ、日本高等学校野球連盟は、延長25回完投という事態を重く見て、延長18回で引き分けだった場合、その時点で試合を終了し、後日に再試合をすることにルールを変更。そして、最初にこのルールが適用されたのも板東さんが投げた試合でした)
夏の甲子園出場も3回戦で肩を痛めていた
そして、同年、徳島商業高校は、「第40回全国高等学校野球選手権大会」(夏の甲子園)に出場を果たしているのですが、板東さんは、エースで4番として出場すると、秋田商業高校戦では、7奪三振で完封勝利。
続く、福岡県立八乙女高等学校戦にも登板すると、1点は失ったものの15奪三振を奪い、準々決勝に進出します。
(ただ、この時に、板東さんは肩を痛めてしまったそうです)
徳島商業高校時代の板東さん。
夏の甲子園準々決勝では延長18回完投25三振
その後、富山県立魚津高等学校との準々決勝では、剛速球で三振を取る板東さんと、打たせて取る魚津高のエース・村椿輝雄さんの行き詰まる投手戦が展開され、10回からはナイターになったそうですが、
延長18回(3時間38分)でも0対0のままだったことから、(先日、板東さんがきっかけで作られた)新ルールが適用され、この日の試合は終了となり、翌日、再試合をすることに。
(板東さんは、この試合を25奪三振で完投)
ただ、この時、板東さんは、福岡県立八乙女高戦で痛めた肩に加え、腰も痛めてしまっていたそうで、それでも、麻酔注射を打ち、300球の投げ込みを行ってから登板すると、3回頃から麻酔が切れたそうですが、苦しみながらもなんとか3対1で勝利し、準決勝に進出したのでした。
(板東さんは、この再試合でも9奪三振で完投)
ちなみに、当時、球審を勤めた相田暢一氏は、「全国高等学校野球選手権大会史」のインタビューで、
なんという試合ですか。選手たちの死に物ぐるいの意気がこたえて涙が出そうで胸が詰まる試合は初めて。ノドがかれて声も出なかった
と、語っています。
夏の甲子園での奪三振記録が凄すぎる
そして、板東さんは、続く準決勝でも、作新学院高等学校に、14奪三振で勝利するのですが・・・
山口県立柳井高等学校との決勝戦では、肩と腰の痛みから、奪三振は3個にとどまり、14安打7失点と打ち込まれ、0対7で完封負け。惜しくも準優勝となったのでした。
それでも、この年(1958年)の板東さんは、1試合25奪三振(富山県立魚津高等学校戦との準々決勝)と大会通算83奪三振(6試合)という、ありえない記録を打ち立てており、当然ながら、2021年現在、破られていません。
(というか、永久に破られることはないでしょう)
ちなみに、この(1958年)夏の甲子園での板東さんの奪三振の記録をおさらいすると、
- 2回戦 17奪三振(秋田市立秋田商業高等学校戦)
- 3回戦 15奪三振(福岡県立八女高等学校戦)
- 準々決勝 25奪三振(富山県立魚津高等学校戦 延長18回引き分け)
- 再試合 9奪三振(富山県立魚津高等学校戦)
- 準決勝 14奪三振(作新学院高等学校)
- 決勝 3奪三振(山口県立柳井高等学校)
と、なっています。
(板東さんは全試合完投)
徳島商業高校時代の板東さん。