1959年、プロ野球の「中日ドラゴンズ」に入団すると、先発やリリーフで活躍するも、やはり、高校時代の登板過多のせいか、故障が相次いだという、板東英二(ばんどう えいじ)さんは、引退後は、「十姉妹(じゅうしまつ)」というあだ名をつけられていたほどの饒舌(じょうぜつ)を活かし、野球解説者として人気を博します。

「板東英二の中日ドラゴンズ入団は家庭の事情だった!」からの続き

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右肘の故障が原因でプロ野球を引退

1964年には、リリーフ投手として復活すると、再び頭角を現し、なんとか活躍を続けていた板東さんですが、1968年には、シーズン中の6月に、東京大学医学部附属病院での緊急手術で右肘の軟骨を除去すると、同年シーズン終盤の9月には一軍に復帰するも(当時のプロ野球選手では前例のない手術だったそうです)、登板過多の影響から、この年は18試合出場でわずか1勝にとどまります。

そして、翌年の1969年には、開幕戦の広島東洋カープ戦で、サヨナラ本塁打を浴びて敗戦投手としてのスタートとなると、以降、16試合に登板するも、プロ入り初のシーズン未勝利に終わってしまい、この年限りで板東さんは現役を引退しています。

(ちなみに板東さんは、プロではあまり目立った活躍ができなかったと言われることが多いですが、11年間で77勝するほか、あの、世界の本塁打王の王貞治さんから一本もホームランを打たれていません。また、1966年8月26日の巨人戦のリリーフ登板では、国松彰選手を1球でショートゴロに打ち取って降板し、セ・リーグで初めて1球で勝利投手となる珍記録も残しています)

プロ野球引退後は野球解説者&タレントに転身

そんな板東さんですが、現役時代、「十姉妹(じゅうしまつ)」というあだ名をつけられるほど、ダッグアウトでよくしゃべっていたそうで、現役を引退した翌年の1970年から野球解説者になると、その饒舌(じょうぜつ)ぶりから人気を博します。

そして、1974年には、野球解説をしていたCBCラジオで、昼ワイド番組「ばつぐんジョッキー」の月曜パーソナリティを担当するなどタレントとしての活動も開始すると、そこで、木曜パーソナリティ担当の上岡龍太郎さんと知り合ったといいます。

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もともと上岡龍太郎のファンだった

実は、板東さんは、もともと、上岡さんのファンだったそうで、プロ野球で現役だった頃、阪神タイガースとの試合で大阪を訪れると、「吉本興業」の劇場・うめだ花月(2008年閉館)に、「漫画トリオ」(上岡さんは「横山パンチ」名義)のライブをよく観に行っていたのだそうです。

(ちなみに、当時はまだ、冷房のついているホテルがあまりなく、板東さんが所属する中日ドラゴンズが、大阪に来て阪神タイガースと試合をする時の定宿は、大阪・梅田にある(冷房のある)ラブホテルだったそうで、「うめだ花月」は、そのラブホテルのすぐ近くにあったのだそうです)

「板東英二は上岡龍太郎からの助言を仕事の基本としていた!」に続く

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