1985年は、甲子園での巨人2回戦で、ランディ・バース選手、掛布雅之選手と共にバックスクリーン3連発を放つほか、打率3割4分2厘、35本塁打、101打点という文句なしの(自己最高)成績で、阪神のリーグ優勝&日本一に貢献した、岡田彰布(おかだ あきのぶ)さんですが、翌1986年からは徐々に打撃成績が下降すると、1993年にはついに阪神タイガースから戦力外通告を受けてしまいます。

「岡田彰布はバース・掛布に続きバックスクリーン3連発を放っていた!」からの続き

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1985年をピークに成績が下降

1985年には、打率3割4分2厘、35本塁打、101打点という文句なしの(自己最高)成績で、阪神タイガースのリーグ優勝&日本一に大きく貢献した岡田さんですが、

翌1986年は、打率2割6分8厘、26本塁打、70打点、1987年は、打率2割5分5厘、14本塁打、58打点、1988年は、(4番打者として)打率2割6分7厘、23本塁打、打点72と、1985年に比べると、物足りない数字に終わります。

(チームの阪神タイガースも、1986年は3位、1987年と1988年は最下位となっています)

1989年にはプロ入り2度目の月間MVPを受賞するも・・・

それでも、1989年は、掛布雅之選手の引退に伴い、セカンドから(大学時代に守っていた)サードにコンバートされると、

6月25日、甲子園での巨人13回戦では、1対4のビハインドで迎えた8回裏二死満塁の場面で、ビル・ガリクソン投手から左翼ポール際へ劇的な逆転満塁本塁打を放つほか、この月8本塁打の活躍で、プロ入り2度目の月間MVPを受賞するなど、打率2割8分、24本塁打、76打点と、やや復活するのですが・・・


岡田さんの逆転満塁ホームラン。(タップでyoutube)

1992年には深刻な打撃不振でプロ13年目にして初めて代打を送られる

1990年には、打率2割6分5厘、20本塁打、75打点、1991年には、打率2割4分、15本塁打、50打点と、再び成績が下降すると、

1992年には、セカンドを和田豊選手に譲り、ファーストにコンバートされながら、開幕から5番で出場していたのですが、そんな中、チームでは、新庄剛志選手や亀山努選手など若手が台頭していたこともあり、4月25日の中日4回戦(ナゴヤ球場)では、打順を7番に降格させられます。

しかも、1点リードの5回一死二、三塁という場面で6番の八木選手が敬遠となり、岡田さんに打順が回ってくると、中村勝広監督には5年目の若手・亀山選手を代打として送られてしまいます。

(岡田さんは、前日まで打率1割8分5厘と打撃不振だったのですが、代打を告げられたのはプロ13年目にして初めてのことだったそうです)

ちなみに、この夜、遠征先の宿舎で食事中、亀山選手が謝りに来たそうで、岡田さんは「お前はなんも悪ないやろ」と答えたそうですが、その様子をほかの若い選手が見て見ぬふりをしているのに気づき、周囲が自身に気を遣っていることを感じたといいます。

(若い頃は早稲田大学の先輩後輩として良好な関係だったという中村監督とは、この日以来、険悪になったと言われています)

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1993年には阪神タイガースから戦力外通告を受け涙の退団会見

そんな岡田さんは、その後も打撃不振だったことから、出場機会も激減し70試合となると(1割8分9厘、2本塁打、19打点)、

1993年には、再び外野手にコンバートされるのですが、出場機会は前年よりもさらに少ない42試合で、打率1割7分、1本塁打、7打点と低迷。

すると、シーズン終了後には、戦力外通告を受けて自由契約になってしまい、一時は引退も考えたそうですが、現役にこだわり、「退団」の道を選んだのでした。

ちなみに、岡田さんは、甲子園の最終戦で行われた退団会見で、涙ながらに「これからも阪神ファン」と言い切り、タイガースのファンに別れを告げています。

「岡田彰布は仰木彬監督に誘われてオリックスに移籍していた!」に続く


岡田さんの涙の退団会見。(タップでyoutube)

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