1993年シーズン終了後、阪神タイガースから戦力外通告を受け、一時は引退を考えるも、現役にこだわり、「退団」の道を選んだ、岡田彰布(おかだ あきのぶ)さんは、オリックスの仰木彬監督に誘われ、オリックスに移籍しています。

「岡田彰布の若い頃は阪神退団会見で涙していた!」からの続き

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オリックス仰木彬監督に誘われオリックスに移籍

1993年オフ、阪神タイガースから戦力外通告を受け、阪神を退団した岡田さんですが、オリックスの仰木彬監督から「うちで燃え尽きたらどうや」と声を掛けてもらったそうで、1994年には、オリックスに移籍しています。

すると、出場数は53試合と少なかったものの、常に勝つことを第一に考え、準備を怠らなかった岡田さんの姿勢はチームに好影響を与え、翌1995年には、オリックスはリーグ優勝。岡田さんは、このタイミングで現役を引退したのでした。

(日本シリーズでの出場機会はありませんでした)

オリックス仰木彬監督は岡田彰布の豊富な技術と経験のほか野球に対する取り組み方を高く買っていた

ちなみに、当時、オリックス球団代表だった井箟重慶氏によると、仰木監督は、ファンサービスに熱心で、当時、人気がなかったオリックスに、とにかく、スター選手を欲しがっていたそうですが、

(阪神ブランドを利用したかった井箟氏と考えが一致したそうです)

それだけでなく、岡田さんの豊富な技術と経験、野球に対する取り組み方を高く買っており、戦力外通告はされたものの、指揮官(中村勝広監督)との確執で出場機会に恵まれなかっただけで、まだまだ選手としてやれると見込んでいたといいます。

(岡田さんと中村勝広監督は、若い頃は早稲田大学の先輩後輩として良好な関係だったそうですが、1992年、開幕から5番だった打順を、4月25日の中日戦(ナゴヤ球場)では、7番に下げられたうえ、1点リードの5回一死二、三塁という場面で6番の八木選手が敬遠された後、5年目の若手・亀山選手を代打に出されたのをきっかけに、険悪になったと言われています)

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チームがどうすれば強くなるのか試合後はしばしば仰木彬監督と長時間語り合っていた

また、監督と折り合いが悪くて自由契約になった選手は、一般的には敬遠されるのですが、仰木監督は、岡田さん獲得に当たり、「オレに任せてください」と言って、にっこり笑っていたとのことで、

実際、岡田さんは、オリックス1年目は53試合に出場しただけだったのですが、そんな仰木監督の気持ちに応えるように、ふてくされることなど一切なく、それどころか、自分のことだけでなく、チームがどうしたら強くなるかを真剣に考えていたそうで、

試合後は、しばしば、大阪・谷町のウナギ屋で仰木監督と2人でお酒を酌み交わしながら、試合の戦略について長時間語り合ったのだそうです。

「岡田彰布の現役(プロ野球選手)時代の成績は?」に続く

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