1962年、慶大で名遊撃手として活躍していた安藤統男(入団当初は本名の「安藤統夫」で登録)選手が入団すると、遊撃手のレギュラー交代が噂に登るようになり、正遊撃手の座も安泰ではなくなりつつある中、青田昇ヘッドコーチにも打撃改造に示唆され、尻に火がついた、吉田義男(よしだ よしお)さんは、選手生命をかける覚悟で打撃改造に取り組むと、翌年1964年のシーズンでは、初の3割を記録し、阪神タイガースの優勝に大きく貢献したといいます。

「吉田義男は車を売って自宅の車庫でトスバッティングに励んでいた!」からの続き

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2つ年下の新聞配達の青年・黒島昌彦にトスバッティングを頼んでいた

車を売り払い、自宅のガレージにネットを張って、朝7時から、約1時間、妻の篤子さんにボールをトスしてもらい、バッティング練習をしていたという吉田さんですが、

篤子さんがボールの音を怖がったことや、トスの要領をうまく掴めなかったことから、誰か別の人にトスを頼もうと考えていたところ、思い当たったのが、近所で新聞配達をしていた黒島昌彦さんという、吉田さんより2歳年下の青年だったそうで、

黒島さんは、阪神ファンだと言っていたことから、少しは野球のことも知っているだろうと思い、思い切って、

配達が終わってから、1時間、アルバイトをするつもりで、ボールをトスしてもらえないだろうか

と、頼むと、黒島さんは快諾してくれ、毎朝の特訓に付き合ってくれたそうです。

(1時間100円のアルバイトだったそうです)

毎日1000球の特打を2ヶ月半続け打撃改造に成功していた

すると、黒島さんも、初めのうちは、打球が頭に当たりはしないかと怖がっていたそうですが、慣れてくるとトスも上手になり、おかげで、吉田さんの練習ははかどり、かご一杯に入っている100個のボールを10回繰り返して打てたそうで(つまり、毎日1000球)、

(黒島さんは、本格的な野球経験はなかったにもかかわらず、最終的には、「脇があいた」「バットが下から出た」などと言ってくれるまでになったそうです)

これを、1月の自主トレが始まるまで続けると(2ヶ月半)、青田昇ヘッドコーチから指摘されていた、打撃フォームが「入」から「人」 の形になり、いい具合に固まってきたそうで、バットを振り込むことで下半身の鍛錬もでき、構えにどっしりした安定感を感じられるようにもなったのだそうです。

手の平の皮がズルズルにむけて紫色になっていた

ちなみに、2ヶ月半のトスバッティングの特訓期間には、運動靴を三足履き潰したほか、奥さんに編んでもらった指のない毛糸の手袋をはめていたにもかかわらず、手の平は皮がズルズルにむけて紫色になり、足の裏のようになったそうですが、

それでも、吉田さんは、選手生命を賭ける覚悟だったことから、かまわず、無我夢中で特打に励んだそうです。

(阪神球団は、安藤統男さんのほかにも、関大の藤井栄治選手、法大の室山皓之助選手らを獲得しており、明らかに若返りを図っていたそうです)

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1964年には初の打率3割をマークして阪神タイガースの優勝に貢献

すると、その甲斐あり、翌年の1964年には、最後まで、中日・江藤慎一選手(3割2分3厘)や巨人・王貞治選手(3割2分)と首位打者争いをし、

最終的には、初の打率3割(打率3割1分8厘で打撃成績3位)をマークして、阪神タイガースの優勝にも大きく貢献したのでした。

(特訓に協力してくれた黒島さんは自分のことのように喜んでくれたそうです)

「吉田義男はジーン・バッキーと親しく交流していた!」に続く

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