高校卒業後、早稲田大学進学を希望していた、中西太(なかにし ふとし)さんは、西鉄ライオンズの三原脩監督に誘われ上京すると、早稲田大学進学の費用を西鉄が出す代わりに、卒業後は西鉄に入団するようにと提案され、これを受け入れたそうですが、その後、一転、三原監督からは、高卒後すぐに西鉄入団するよう促され、西鉄入団を決めたといいます。
「中西太は高3の甲子園で2試合連続でランニングホームランを打っていた!」からの続き
出雲の招待試合に西鉄の三原脩監督が同行することに
学生野球指導者で新聞記者だった飛田穂洲さんに早稲田大学進学を勧められると、高松中出身で早稲田大学OBだった、西鉄ライオンズの三原脩監督からも上京を誘われたという中西さんは、上京すると、三原監督には、銀座で天ぷらをごちそうになったりしたそうですが、
出雲で行われる招待試合に出場するため、山陰に向かう際には、三原監督も、中西さんがプレーしている姿を見たいと、急遽、同行することになったそうです。
西鉄の三原脩監督には早大進学費用負担と卒業後の西鉄入団を提案されていたが・・・
すると、中西さんは、試合で、4打数4安打2本塁打と大活躍したそうで、これを見た三原監督からは、(中西さんの家が貧しかったことから)早稲田大学進学の費用を西鉄が出す代わりに、卒業後は西鉄に入団するようにと提案されたそうで、中西さんは、この申し出を受け入れたそうですが・・・
三原脩監督から高校卒業後すぐに西鉄に入団するよう勧められ入団を決意
しかし、その後、一転、三原監督からは、高校卒業後すぐに西鉄に入団するよう勧められたそうで、最終的には、「郷里の先輩を信じるのが一番良い」というお母さんの助言で、中西さんは、大学進学を諦め、西鉄入りを決意したのだそうです。
(お母さんが女手一つで兄弟8人を育てていたことから、早く卒業して働き、恩返しをしたいという気持ちもあったそうです)
とはいえ、いざ、契約書にサインする際には、早稲田大学進学の夢が打ち砕かれたことや、ラジオで聞くプロ野球の世界は想像もつかず、
周りからなんぼ大丈夫と言われても、自信なんかない
と、怖くなってボロボロと涙がこぼれたそうです。
それでも、
契約金をもらった以上、後には引けない
と、覚悟を決めて、西鉄ライオンズの本拠地である福岡へと旅立ったのだそうです。
(三原監督は、毎日オリオンズの若林忠志監督が、毎日新聞高松支局長を伴って中西さんのお兄さんを取り込み、中西さんと契約寸前までいっているという連絡を受けたことから、すぐさま、中西さんの家に向かい、高校卒業後すぐに西鉄へ入団するよう勧めたそうで、その際には、高松一高野球部後援会や市会議員までが出てきて、中西さんの西鉄入団を後押ししたのだそうです)
「中西太はプロ2年目で本塁打王と打点王とトリプル3を達成していた!」に続く