高校3年生の春のセンバツ出場が決まった頃から進路をプロ一本に絞り、同年11月22日のドラフト会議では、地元の球団で意中の中日ドラゴンズからの指名を心待ちにしていたイチローさんですが、中日からは指名されることなく、オリックス・ブルーウェーブから4位指名され、大学進学も考えたといいます。
「イチローは高校時代は練習しなかった?陰練(かげれん)していた?」からの続き
イチローはオリックスにドラフトで4位指名されるも・・・
1991年11月22日、新高輪プリンスホテルで行われたドラフト会議では、くじ引きによる抽選が始まると、1位指名、2位指名、そして3位指名と、次々に選手たちが指名されていくも、イチローさんの名前は読み上げられませんでした。
そして、イチローさんの名前が読み上げられることがないまま、抽選会場からのテレビ中継は終わってしまったそうで、イチローさんは、仕方なく、続きをラジオで聞くことにしたそうです。
(テレビ中継(生放送)ではドラフト指名の一巡目から三巡目までしか放送されず、それ以降の指名選手は、ラジオを聞くしかなかったそうです)
すると、四巡目となった時、
オリックス、鈴木一朗、18歳、投手、愛知工業大学名電高校。
と、読み上げられたそうですが・・・
イチローは中日ドラゴンズに指名されずショックを受けていた
イチローさんの父・宣之さんが、大喜びで「おめでとう」と言うも、イチローさんはというと、「うん」と言いつつも、複雑な表情を浮かべていたといいます。
というのも、イチローさんは、幼い頃から、地元球団である中日ドラゴンズの大ファンだったため、中日へ入団することを希望しており、
宣之さんも、
子供のころからドラゴンズのファンだったし、せめて3位ぐらいまでに(中日が)指名してくれればいい
と、考えていたそうですが、
イチローさんは、意中の中日から声がかからず、ショックを受けていたのだそうです。
1991年11月22日のドラフト会議では、子供の頃からファンだったという地元・愛知の球団・中日ドラゴンズから指名されずにショックを受けるも、愛工大名電高校野球部の中村豪監督に説得され、4位指名されたオリックス・ブルーウェ …
イチローは意中の中日ではなくオリックスからの指名に大学進学を希望するも、中村豪監督に説得されオリックス入りを決めていた
そんなイチローさんは、当初は、中日に行けないのなら大学に進学すると言っていたそうですが、頭の切り替えが早いイチローさんは、最終的には、愛工大名電高校野球部の中村豪監督の説得もあり、4位指名されたオリックスに入団する決意をしたそうで、
中村豪監督は、その時のイチローさんの様子を、
指名を受けたとき、彼は授業を受けてました。それでコーチがオリックスから指名されたと伝えると、ずいぶんがっかりしてたみたい。彼の中ではプロ野球イコール、ドラゴンズだったからね。
後になっていろんな人に『何でドラゴンズに行かせなかったんや』って言われたけど、ドラゴンズのスカウトは獲る気なかったな。『内野ができれば……』って言ってたし。
こっちは、『(巨人の好打者)篠塚(和典)二世』になります、この子の打撃はねちっこくて、柔らかいですよ、ってアピールしたんだけども。そのスカウトは、イチローが活躍し始めたあと、中国担当に配置換えになってしまった。
それで、イチローは順位は気にしてなかったけど、オリックスということで、嫌だ、大学へ行くって言い出した。私が当時の日大の監督と仲がよかったから、獲ってくれるって言ってたんだよな。
でも、それはいかんぞ、って。私も工藤(公康=愛工大名電高校在校時、社会人行きを明言するも、1981年のドラフトで西武から6位指名を受けると一転してプロ入り)の時、ゴタゴタして嫌な思いもしたからね。
(野球じゃなく)サッカーのチーム行くわけじゃないんだから行け、って。必要としてくれてるんやから行くべきだ、と。で、納得してオリックスに行くわけです
と、明かしています。
イチローはオリックスと契約金4000万円、年俸430万円で契約していた
こうして、イチローさんは、契約金4000万円、年俸430万円でオリックス・ブルーウェーブと契約したそうですが、
父親の宣之さんによると、契約金の約半分が税金として徴収され、実際に手元に残ったのは約2000万円だったそうで、これを退職金の先払いとして貯金したそうです。
また、1年目の年俸の提示額は、もともとは420万円だったそうですが、「シニ(死に)」で語呂が悪いと、金額を変えてもらい、430万円となったのだそうです。
「イチローは中日ドラゴンズにドラフト3位で指名されるはずだった?」に続く
オリックスの新人選手入団発表会より。イチローさんは後列右。前列左はドラフト1位の田口壮さん。