オリックス入団1年目と2年目には、独特の打撃フォーム(前足に体重を乗せてスイングする打法)を山内一弘一軍打撃コーチに嫌われ、再三、上体を動かさずに体重を残す打法とダウンスイングを強要されたというイチローさんは、当初は、やむなく受け入れるも、成績は低迷する一方だったことから、やがては、山内一弘一軍打撃コーチの指導を拒否し、二軍に落とされたそうですが、

しばらくは、一軍に呼ばれても、拒否し、二軍で河村健一郎軍打撃コーチと共に、元々の打法に戻して改良を重ねると、ついに”振り子打法”を作り上げ、3年目の1994年には、見事、シーズン210安打の日本記録(当時)を更新します。

イチローと川村健一郎

「イチローは山内一弘コーチに「振り子打法」を否定され干されていた!」からの続き

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イチロー独特の打撃フォームを二軍打撃コーチの河村健一郎は評価していた

イチローさんは、オリックスに入団すると、まずは二軍からスタートしているのですが、二軍打撃コーチの河村健一郎さんは、イチローさんの独特の打撃フォーム(右足に体重を乗せてスイングする打法)やしなりのあるスイング軌道、タイミングの取り方を評価していたといいます。

ただ、イチローさん独特の打撃フォームでは、(この時すでに、イチローさんは打ち分けをする技術を持っており、インコースも思い切り叩いて長打を打つことが得意だったのですが)長打を狙う際に、右肩が開くクセがあったことから、

河村健一郎コーチは、まずは、打ち返せる球をショート方向にライナーで飛ばすために、バットの内側に当ててセンターから左方向を意識して打つように指導したそうです。

また、イチローさんは、スピードボールには差し込まれて凡フライになっていたそうですが、高校を卒業したばかりのイチローさんには基礎体力がなかっただけで、タイミング的には合っていたことから、(ライナーと凡フライは紙一重のため)筋力・体力がつけば、必ずヒットになると練習を続けさせたのだそうです。

(この時、イチローさんの打法は、まだ、「振り子打法」ではありませんでした)

ちなみに、河村健一郎さんによると、イチローさんは試合ではたまに指示に従わず、ライト方向へ長打を打ったそうで、(怒られないかと心配して)こちらをチラチラと見ていたこともあったそうですが、河村健一郎さんは、イチローさんが自分のやるべきことを理解していると信じていたことから、叱ったり、自分の考えを押し付けたりせず、イチローさんの視線から目を逸らして、気付いていないふりをしていたそうです。

イチローは二軍で活躍し一軍に昇格するも実力が伴わず代打や守備固めでの起用がほとんどだった

すると、イチローさんは、すぐに二軍で成績を残し、その活躍を評価されて、1年目の1992年7月11日、一軍に昇格。

ただ、打率は2割5分台と、高卒新人野手としてはまずまずの成績ながら、一軍でレギュラーを張るほどの実力はなく、代打や守備固めでの起用がほとんどだったそうで、

河村健一郎さんは、この頃のイチローさんについて、

1年目から何度か一軍に呼ばれたけど、まだ体に力がついていないから、速い球に差し込まれてフライアウトになることも多かった。

それを見た一軍首脳陣は「この打ち方では打てない。足の速さを活かすためにゴロを打て」と、振り子打法をやめるように強制しようとした。

それでもイチローはフォームを変えない。結果が出ず、秋季キャンプの後、イチローは「もう一軍に行きたくない」と悔し涙をこぼしていたよ

と、語っています。

(※河村健一郎さんは、「振り子打法」と言っていますが、この時のイチローさんは、まだ、後の「振り子打法」ではなく、まだ未完成な独特の打撃フォームでした)

イチローは山内一弘一軍打撃コーチに打撃フォームを矯正され、バラバラになっていた

そんな中、河村健一郎さんは、イチローさんが一軍に上がるのは時期尚早と判断し、そんな使い方をされるくらいなら二軍でたくさん打席に立たせてあげたいと思っていたそうですが、

1年目のシーズン終了後には、イチローさんの打撃が、二軍にいた時より崩れていたことに気づき、一軍の選手にイチローさんの一軍での様子を聞くと、

山内一弘一軍打撃コーチから、

スイング軌道を上から叩け、ヘッドをボールにぶつけるように打て

と、教え込まれていたことが分かったそうで、

折角のイチローさん独特のバットがしなるようなゆったりとした打撃フォームではなくなっていたのだそうです。

(イチローさんはレベルスイングにもかかわらず、体重68キロと体が細かったため、通常のタイミングでボールを捉えると、力負けして内野フライを量産していたことから、山内一弘一軍打撃コーチにはアッパースイングに見え、イチローさんの打撃フォームを評価できなかったそうで、この独特の打撃フォームを巡って二人は対立していたのですが、まだ高卒1年目だったイチローさんは、結局、山内一弘一軍打撃コーチの言うことを聞くしかなかったそうです)

イチローは河村健一郎二軍打撃コーチと元の打法に戻してから改良に取り組み、プロ初本塁打を放つも、首脳陣には酷評されていた

そんなイチローさんは、2年目の1993年には、開幕一軍入りを果たすも、

一軍で通用する打撃フォームにしなければいけない

という方針により、一軍首脳陣から徹底的にフォーム矯正され、

4月は、11打数1安打(スタメン2試合と代打)と全く結果が出なかったそうで、4月下旬には二軍へと落とされてしまうのですが、

成績を残そうとする焦りから、フォームの型を崩してしまっており、その時のイチローさんのフォームを見た河村健一郎さんは、あまりにもガタガタに崩れていたため、驚いたそうです。

(イチローさんを発掘した三輪田勝利スカウトも強いショックを受けていたといいます)

そこで、河村健一郎さんは、イチローさんの元々の打撃フォームに戻して打法の模索に着手したそうで、この間、イチローさんは、一軍と二軍を行ったり来たりしつつ、1993年6月12日には、一軍のスタメンに抜擢され、第1打席で右安打を、第4打席で右翼へプロ初本塁打を放っているのですが、

この本塁打は詰まった当たりで、球場(長岡市悠久山野球場)が狭いためにギリギリで入ったということもあり、一軍の首脳陣は

ミドルヒッターのくせに、バットを大振りしている。こんな振り回すような打撃は期待していない

と、評価せず、

一発狙いの打撃をした

無意味なフルスイング

と、酷評し、

イチローさんの打撃を認めようとはしなかったのでした。

イチローは山内一弘一軍打撃コーチからの再三のフォーム改造命令を拒否し二軍に落とされていた

それでも、イチローさんは、その後も、少しの間、スタメン出場を続けていたのですが、打率は低迷したままだったことから、首脳陣から打撃フォームを酷評され、再び、山内一弘一軍打撃コーチから強い干渉を受けたそうですが、

(山内打撃コーチは、再三に渡り、上体を動かさずに体重を残した打法とダウンスイングのフォームに改造するよう強要したそうです)

今度は、イチローさんはこれを突っぱね、自身の打法を貫くと、その後、7月4日にもフォーム改造命令を受けたそうですが(3回目)、これも拒否。

すると、翌7月5日には2度目の二軍落ちとなったのでした。

イチローは「振り子打法」を河村健一郎二軍打撃コーチと共に完成させていた

そして、イチローさんは、それ以降は、一軍に呼び出されても、

フォームを固めたい

という理由で固辞し、

二軍打撃コーチの河村健一郎さんと共に二人三脚で打法の改良を重ねると、最初は自然に上がっていた足が、最終的には、意図的に大きく上げる”一本足打法”へと変わっていったそうで、

1994年には、ついに、後に”振り子打法”と呼ばれる新打法の形が完成したのでした。

(”振り子打法”は打つ際の前足が振り子のように特徴的な動きをすることから、マスコミに命名されたもので、イチローさんと河村健一郎さんの間では「一本足打法」と考えていたのだそうです)

イチローが河村健一郎二軍打撃コーチと開発した”振り子打法”とは?

ちなみに、”振り子打法”とは、投手側の足を高く上げるか、または、すり足の様に移動させ、体を投手側にスライドさせながら踏み込んでスイングする打法のことで、

通常の打法では、ボールを見極めやすいように頭の位置を出来るだけ固定し、視線を動かさないことが理想とされているのですが、

“振り子打法”は、打席の中で体を投手側へスライドしていくため、打者の視線も大きく動き、足が返っていく反動を利用しながら、打つ瞬間に軸足が投手側の足へ移っていくという打法なのだそうです。

“振り子打法”はイチローの能力を活かす理にかなった打法だった

ただ、このように、右足を踏み込んで体重移動する”振り子打法”は、軸がぶれるからダメだと、一軍首脳陣により批判されていたのですが、

(並の打者だと、頭が前に出て体が泳ぎやすくなり、球を捉えにくくなる)

イチローさんの場合、右足に合わせて左足も同じようにずらすことができ、頭と両足が作る二等辺三角形が崩れないため、軸がぶれなかったほか、

イチローさんは、いろいろなタイミングで打つことができる天才的な感性があったことから、イチローさんの能力からすると、非常に理に適ったフォームだったのでした。

イチローは3年目の1994年、シーズン210安打の日本記録を更新するも一部の首脳陣からは「まぐれだ」と言われ続けていた

そして、イチローさんも河村健一郎さんも、この打ち方(”振り子打法”)で通用するという確信があったことから、二人で話し合って、一軍首脳陣からの打撃フォーム矯正を拒否することを決めたそうで、

その結果、イチローさんは、3年目の1994年には、見事、シーズン210安打の日本記録(当時)を更新したのですが、

それでも一部の首脳陣からは「まぐれだ」と言われ続けたそうです。

それでも、河村健一郎さんは、

お前の選手生活はずっと続くが、監督やコーチは代わる。今の打撃を続ければいい

と、イチローさんを励ますほか、

一軍首脳陣の圧力からイチローさんの打法を擁護し、かばい続けたのだそうです。

河村健一郎二軍打撃コーチがイチローの打法を問題ないと判断した理由とは?

ちなみに、河村健一郎さんがイチローさんの打法を見て、問題ないと判断した理由は、

  • ヘッドが下がる点での批判に対しては、最後にヘッドが立っており技術的に優れていると考えていた
  • 山内一弘一軍打撃コーチが、ヘッドを早く出すことを要求していたことに対しては、下半身主導でヘッドを遅れて出し、木製バットのしなりを利用する打撃がイチローの長所だと考えていた
  • 山内一弘一軍打撃コーチが内角の高めからベルト付近への投球に差し込まれやすいことを問題視していたことに対しては、筋力が付けば解消されると考えていた
  • 内野フライが多いという指摘に対しては、タイミングは合っているので、出場を続けて一軍の投手の投球に慣れれば恒常的に安打を打てるようになると考えていた

などだったそうで、

このことから、山内一弘一軍打撃コーチのフォーム改造指示を無視することにしたそうですが、メジャーリーガーの打撃フォームを調べるうち、多くの選手が軸足を動かしていることにも気づいたそうで、イチローさんもいけると思ったのだそうです。

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“振り子打法”はイチローの強い信念により完成させることができていた

そして、河村健一郎さんは、イチローさんが”振り子打法”を完成させることができたのは、何よりも、イチローさんに強い信念があったからだとし、

並の選手なら、やはり試合に出たいからと変更に応じるでしょう。でも、もしこの時にフォームを変えていたら、プロ野球初となるシーズン200本安打はもちろん、メジャーでの活躍や、WBC韓国戦でのあの劇的な一打もなかったかもしれません。

彼に頑固さがなければ歴史が変わっていたと考えると、背筋が寒くなります。

と、語っています。

また、河村健一郎さんは、イチローさんとの出会いについて、

コーチ生活の中ではイチローに巡り合えたのが一番の幸せ。試合で、また打った、また打ったという感じで、一緒に歩んだ2年間は本当に楽しい日々だった。

と、語っています。

「イチローと仰木彬監督の出会いは?「仰木マジック」の本当の意味とは?」に続く

イチローと川村健一郎
川村健一郎さんとイチローさん。

お読みいただきありがとうございました

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