プロ入り1年目には新人王、2年目には本塁打王と打点王の2冠王に加え、史上最年少でトリプルスリーを達成した、中西太(なかにし ふとし)さんは、その後も、4年連続本塁打王と4度の二冠王と、毎年、打撃3部門のいずれかのタイトルを獲得する活躍をするのですが、1959年にケガを負い、本来のバッティングができなくなると、1962年からは選手兼監督に就任し、1963年には、最大14.5ゲーム差あったゲーム差をひっくり返し、西鉄ライオンズを優勝に導いています。

「中西太はプロ2年目で本塁打王と打点王とトリプル3を達成していた!」からの続き

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プロ9年目にして左手首を痛め豪快なフルスイングができなくなっていた

1952年、高卒で西鉄ライオンズに入団すると、1年目には新人王、2年目には本塁打王と打点王の2冠王に加えて史上最年少でトリプルスリーを達成した中西さんは、

3年目も本塁打王、4年目も本塁打王と首位打者の2冠王、5年目も本塁打王と打点王の2冠王、6年目も打点王、7年目も本塁打王と首位打者の2冠王と、入団してから毎年タイトルを獲得する活躍ぶりだったのですが、

(チームも1956~1958年には3年連続日本一に輝いています)

8年目となる1959年には、近鉄の小玉明利選手に利き手の右手をスパイクされて負傷すると、1960年には、スイングの衝撃に耐えきれず、左手首にも痛みが出たそうで(腱鞘炎)、全国の名医を巡るも、完治には至らず、豪快なフルスイングを取り戻すことができなくなってしまったそうで、

中西さんは、

ワシの選手人生は(昭和)33年(1958年)で終いや。あとは、おまけやね。左手首の腱鞘炎になって。骨が欠けていたらしいよ。それじゃあ、いくら温泉に入っても仕方がなかったな(笑)。今の医学なら治るんやろうけど、これも人生や

と、語っています。

入団11年目29歳で選手兼監督に就任

そんな中西さんは、1961年には、一旦、回復し、99試合出場(主に一塁手として78試合にスタメン出場)して、打率3割4厘、21本塁打を記録するも、なかなか、本来のバッティングを取り戻すことが出来なかったそうで、

そんな中、川崎徳次監督が、1960年、1961年と2年続けて3位と優勝出来なかったことから、1961年のシーズン終了後には、選手兼任監督に就任します。

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1963年選手兼任監督2年目には14.5ゲーム差を逆転優勝

そのため、1962年以降は、選手としての出場機会は激減するのですが、兼任監督就任2年目の1963年には、トニー・ロイ選手、ジム・バーマ選手、ジョージ・ウィルソン選手ら外国人選手が活躍するほか、若生忠男投手、畑隆幸投手、田中勉投手、安部和春投手、井上善夫投手ら若手投手が奮闘し、最大14.5ゲームあったゲーム差を逆転してリーグ優勝に導いています。

(この年は、開幕からずっと、南海ホークスが首位を独走していたそうで、西鉄は6月には14.5ゲーム差だったそうですが、8月から一気に追い上げ、9月末で3.5ゲーム差にまで追いすがると、南海の全日程が終了した10月17日には、西鉄が「3勝1引き分け」以上の成績で優勝、「3勝1敗」なら南海と同率でプレーオフ、「2勝2敗」以下なら南海の優勝となるところ、西鉄は残り4試合を全勝して優勝したのだそうです)

「中西太は西鉄監督時代に若林忠志ヘッドコーチ退団で批判されるも・・・」に続く

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