3度目の阪神タイガース監督に就任すると、できるだけいい形で次の監督につなぐことを目標に、新庄剛志選手や桧山進次郎選手を育てつつ、トレードで矢野輝弘選手を獲得したという、吉田義男(よしだ よしお)さんですが、監督就任2年目の1998年には、最下位となり、監督を辞任しています。

「吉田義男は新庄剛志にモヒカンにするよう言っていた!」からの続き

Sponsored Link

桧山進次郎を4番で使い続け、自己最多の23本塁打を記録させていた

新庄剛志選手に対して、のびのびとした環境を与えることで、野球に集中させようとしたという吉田さんは、桧山進次郎選手にも、

何があっても、4番からははずさない。頼むで

と、言い続け、シーズン通して4番で起用すると、

桧山選手は、1997年には、オープン戦では打率4割と絶好調で、5月に入ってからスランプに苦しむも、見事、吉田さんの期待に応え、前年の22本塁打を更新する、23本塁打を記録したそうです。

(翌年1998年は、クリーンアップを新戦力に総入れ替えしたため、桧山選手を開幕戦で2番に起用したそうですが、オープン戦の終盤に、「お前にはバントはさせない。攻撃型の2番でいくから、自由にやってくれていい」と伝えていたそうで、桧山選手は意気に感じて気合を入れていたそうですが、気負い過ぎて15本塁打に終わってしまったそうです)

ドラ1の今岡誠とベテランの和田豊を競争させていた

また、1996年にドラフト1位で入団した今岡誠(現・今岡真訪)選手は、必ず中心選手に育ってくれるだろうとの期待から、徹底的に使おうと思い、

(競争の原理を利用して)ショートからセカンドへコンバートし、ベテランの和田豊選手と競争させたそうです。

(負けず嫌いな和田選手を刺激しつつ、新人の今岡選手も育てる、両面作戦だったそうです)

2年目の1998年はクリーンナップを新戦力に総入れ替えするも・・・

そんな吉田さんは、3度目の監督就任1年目の1997年、5位に終わると、2年目の1998年には、クリーンアップを、新戦力の、デーブ・ハンセン選手、アロンゾ・パウエル選手、大豊泰昭選手に総入れ替えして臨み、

4月15日のヤクルト戦からは、正捕手を山田勝彦選手から矢野輝弘選手に切り替え、新人の坪井智哉選手を外野手レギュラーに抜擢するほか、二塁手だった今岡誠選手を遊撃手レギュラーで使い続けると、今岡選手は、打率.293、本塁打7本、44打点と期待に応えたそうです。

2年目の1998年は最下位に終わり監督を辞任

しかし、新戦力であるクリーンナップの、ハンセン選手、パウエル選手、大豊選手が揃って不振、新庄選手、桧山選手は共に2割2分台の低打率だったほか、

投手陣も、藪恵壹投手と川尻哲郎投手は2桁勝利を挙げる活躍を見せるも、湯舟敏郎投手が骨折で離脱してしまい、最下位に終わってしまったそうで、

10月7日、球団臨時株主総会・取締役会により、三好一彦球団社長の辞任が決定すると、吉田さんも三好球団社長の後を追う形で辞任したのでした。

ちなみに、吉田さんは、著書「牛若丸の履歴書」で、

2年でチーム再建を果たしたと思えないが、いい選手を残したという自負はある。その代表が捕手・矢野輝弘だ。2年目に中日と矢野、大豊泰昭、(阪神の)久慈照嘉、関川浩一の交換トレードを決めた。

私の最大の狙いは矢野だった。好捕手なしに優勝なし。矢野が息長い活躍で阪神の躍進を支えているのをみると、うれしくなる。

と、綴っています。

Sponsored Link

監督時代の成績

それでは、最後に、吉田さんの監督時代の成績をご紹介します。

ちなみに、阪神タイガースの日本一は、2023年現在、吉田さんが1985年に達成した一回のみとなっています。

「吉田義男が24年間で唯一の退場処分を受けた理由が酷い!」に続く


牛若丸の履歴書

Sponsored Link