高校3年生の時、夏の大会が始まる直前に、練習を観に来ていた南海ホークスの鶴岡一人監督に、「今の実力ならプロに行くより大学に行った方がいい」と言われてしまい、法政大学に進学した、山本浩二(やまもと こうじ)さんは、法政大学野球部入部後も、1年生部員だけで70~80人いる中、なかなか抜きん出ることができず、球拾いか先輩相手の打撃投手をする毎日だったといいます。

法政大学時代の山本浩二

「山本浩二は法政大学に受験していない英文科で合格していた!」からの続き

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法政大学野球部では合宿所(エリートコース)に入れず一般部員だった

無事、法政大学に合格し、野球部に入部した山本さんですが、1年生部員だけでも70~80人いる中、なかなか抜きん出ることができず、一般部員の立場だったそうで、

合宿所(エリートコース)には入ることができず、(芝浦工大4年生の)次兄・尚さんと一緒に東京・目黒にアパートを借り、そこから授業と練習に通ったそうです。

(一方、同期の田淵幸一さんや小林郁夫さんは、エリートコース(合宿組)だったそうです)

法政大学1年生の時は球拾いと先輩相手の打撃投手ばかりさせられていた

そんな山本さんは、ほとんど毎日、球拾いか先輩相手の打撃投手ばかりさせられていたそうですが、4年生には、後に阪急ブレーブス(現・オリックスバファローズ)に入団した長池徳二(後に徳士)さんや、後に広島カープに入団した鎌田豊さんら錚々(そうそう)たる先輩たちがいたそうで、

彼らはボールだと打ってくれず(ストライクしか打ってくれず)、毎日緊張して投げていたそうです。

(進級しなければならないため、授業にも出席して、一生懸命勉強もしたそうです)

同期の田淵幸一にライバル心を燃し嫉妬もしていた

また、リーグ戦が始まると、山本さんは、神宮球場で切符切りをしたり、試合中はスタンドで応援していたそうですが、

一方、同期の田淵さんは、1年生の春からベンチ入りし、慶応1回戦では8回に起死回生の同点2ランホームランを放って優勝に大きく貢献するなど活躍していたそうで、

そんな田淵さんを凄いと思いつつ、同時に、同期生としてライバル心を燃し、嫉妬もしたのだそうです。

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松永怜一監督に4番・田淵幸一の前後を打てる打者として期待されていた

そんな中、山本さんは、1965年6月4日(1年生)、春の新人戦の慶応戦で初登板すると、すでにリーグ戦デビューしている田淵さんとバッテリーを組んだそうですが、

いくら首を振っても、田淵さんは真っ直ぐしか要求してこなかったそうで、山本さんはスピードには自信があったものの、真っ直ぐだけではさすがに苦しく、

田淵さんをマウンドに呼んで、

なんでストレートばっかりなんや

と、問い詰めると、

田淵さんは、申し訳なさそうに、

親父さん(松永怜一監督)から真っ直ぐしか投げさせるなと言われているんだ

と、言ったといいます。

実は、松永監督は4番の田淵さんの前後を打てる打者を探し、その候補に山本さんを挙げていたそうで、早く、山本さんに投手をあきらめさせたかったのだそうです。

(山本さんは、このことをずっと後になって知ったそうですが、すぐ野手転向とはならず、その後もずっと先輩相手の打撃投手は続いたそうです)

「山本浩二は法政大学2年の時に投手から外野手に転向していた!」に続く

法政大学時代の山本浩二
法政大学時代の山本浩二さん。

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