終戦の翌年の1946年、アメリカ軍が奨励したことにより、野球が大流行したそうで、小学生(12歳)だった、吉田義男(よしだ よしお)さんも、すぐに、野球(三角ベース)に夢中になり、中学進学後も野球部に入ったそうで、毎日、練習よりも、球拾いの時間の方が長かったそうですが、全く苦にならなかったといいます。

「吉田義男の幼少期は戦後で食糧難だった!」からの続き

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小学生の頃から野球に夢中だった

戦時中は、敵性スポーツとして白い目で見られていたという野球ですが、終戦の翌年の1946年には、アメリカ軍が奨励したことにより大流行したそうで、小学生(12歳)だった吉田さんは、ほかの遊びも少なかったことから、すぐに、野球(三角ベース)に夢中になり、のめり込んでいったそうです。

ちなみに、物がない時代だったため、ボールは、仲間が姉妹の遊び道具から拝借した「おじゃみ」(お手玉)、バットは棒切れ、グラウンドは、北野天満宮御旅所(おたびしょ)の広場だったそうです。

中学で野球部に入部すると球拾いばかりも辛いと思ったことはなかった

そんな吉田さんは、同年(1946年)、旧制京都市立第二商業学校(京二商)に進学し、野球部に入部すると、

(通っていた朱雀第八小学校からは、大半の生徒が、京都三中(山城高校)か京二商に進学したそうですが、勉強のできる子は京都三中へ、そうでない子は京二商へと大まかに分けられており、そうでない子だった吉田さんは、自然の流れで京二商に進学したそうです)

毎日、(練習するよりも)ボール拾いに明け暮れていたそうですが、野球の虜(とりこ)になっていたことから、それが辛いと思ったことは一度もなかったそうです。

(入部して、初めて野球のボールを握ったのだそうです)

野球が嫌いだった父親にはよく小言を言われていた

こうして、吉田さんは、毎日、野球部の練習で泥だらけになって、夜8時過ぎに帰宅していたそうですが、真面目一方で、スポーツや勝負事が嫌いだったお父さんには、しばしば、

義男、おまえはいったい、何をしに学校へ行っとるのか。野球なんかで遊んでいる暇があったら、早く帰って来て家の手伝いでもしたらどうなんや

と、小言を言われたそうです。

(当時は、敗戦後で、食糧難の時代だったうえ、吉田さんは5人兄弟だったことから、生活していくのに精一杯な家庭の事情もよく分かっていたのですが、野球をやりたいその一心で、お父さんをなるべく刺激しないように、足音を忍ばせて帰宅する毎日だったそうです)

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母親はいつも味方になってくれていた

ただ、お母さんは、おおらかな人で、

好きなことやったらええよ

と、いつも、吉田さんの味方になってくれたそうで、

吉田さんは、そんなお母さんのバックアップがとてもありがたかったそうです。

(お母さんは、5人の子供を育てながら、体があまり強くなかったお父さんの手助けをしていたそうですが、炭俵や薪の束は重く、取り扱いが難しかったうえ、それをリヤカーに積んで顧客の家まで配達しなけれならなかったそうです)

「吉田義男は中学時代は補欠で米を調達するのが仕事だった!」に続く

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