幼少期は胃腸が弱かったながら、小学校に入った頃くらいから元気になり、すばしっこく、運動会で活躍するようになったという、吉田義男(よしだ よしお)さんですが、8歳の時、太平洋戦争が始まると、京都は空襲に遭わずに済んだものの、終戦後は、食糧難で、さつまいものつるや栗を食べる毎日だったといいます。

「吉田義男が牛若丸と言われた由来とは?」からの続き

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11歳の時に母親の従兄弟の家に疎開していた

吉田さんが8歳の時(1941年)、太平洋戦争が始まると、11歳の時には(1945年3月)、8歳年上の姉・芳子さん、5歳年下の妹の章子さんと共に、お母さんの出身地・京都府南桑田郡本梅村(現・亀岡市本梅町西加舎)にある、お母さんの従兄弟の小林昌一さんの家(離れ座敷)に縁故疎開することになったそうで、

吉田さんは、お父さんとお母さんに付き添われ、大八車に荷物と妹を乗せて、京都の西にある老ノ坂(現在の国道9号線)を歩いて越えたそうです。

(大八車は、物資が乏しかった当時では珍しいゴムタイヤだったそうで、「坂道でも楽に引ける」とお父さんが自慢していたそうです)

疎開先では「都会人」と言われ、疎まれ早く実家に帰りたかった

すると、疎開先では、本梅国民学校に転入し、畑ばかりの中を、お姉さんたちと連れ立って通学したそうですが、

周囲の子供たちからは、静かな山村をかき乱す余計な人間だと思われたのか、(蔑称の意味で)「都会人」と言われたそうで、毎日、京都市内へ帰りたい、と思っていたそうです。

長姉・芳子が母親代わりとなって世話をしてくれていた

そんな中、疎開先では、8歳年上の長姉・芳子さんがお母さん代わりとなり、お母さんの姉の子供(吉田さんの従兄弟)の岸かよ子さん、満安さんと共に、5人で一緒に暮らしたそうで、

吉田さんは、著書「牛若丸の履歴書」で、

小学6年生の私から小1の妹まで、4人の子供の食事、身の回りの世話を焼く姉の苦労は大変だったに違いない。

と、綴っています。

大阪や兵庫県尼崎が空襲に遭うと異様な黒煙が上空を漂っていた

ちなみに、戦時中、京都は空襲がなかったそうですが、疎開先である本梅村は、大阪府との県境近くにあったことから(ひと山超えると大阪の能勢だったそうです)、大阪や兵庫の尼崎方面が空襲に遭うと、異様な黒煙が上空に漂ってきたそうで、

芳子さんによると、その時、訳の分からない紙切れが空から舞い落ちてきたそうです。

(爆撃機B29がばらまいた投降勧告ビラだと言われており、B29は、戦時中、飛行機から日本軍の陣地などに、宣伝ビラをばらまいていたそうですが、本土空襲が激しくなった戦争末期には国内の民間人向けにも多くの宣伝ビラを散布したのだそうです)

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戦後は食糧難だった

さておき、同年8月15日に終戦を迎えると、吉田さんは、これでやっと京都に帰れると、京都の実家に戻ったそうですが、

(京都は空襲がなかったため、戦後、吉田さん一家は、すぐに一緒に住むことができたそうです)

待っていたのは、食糧難だったそうで、さつまいものつるや栗を食べる毎日だったそうです。

(疎開先の本梅村では、小林家の配慮で食べるものに不自由はしなかったそうです)

また、農村や山村への食料調達(買い出し)では、大事な和服や背広と食料の交換が当たり前のように行われていたそうですが、

吉田さんは、食料調達のために、お父さんの郷里である丹波の世木村へ、お父さんが残した畑で穫れる作物を収穫しに、お父さんとお兄さんと一緒によく行ったそうです。

ただ、山陰線の殿田駅(現在は日吉駅)まで、すし詰めの汽車で約2時間かかり、ようやく殿田駅に到着しても、そこから畑まで一里(約4キロ)歩かなければならず、さらに、帰りは、食料をいっぱい詰めたリュックを背負って、再び、もと来た一里を歩かなければならず、それは、とてつもなく長い道のりだったそうで、

吉田さんは、その時のことを、著書「牛若丸の履歴書」で、

だが、それに耐えなければひもじい思いをしなければならない。のちにプロ野球に入った私は、心おきなく食べられるのがうれしかった。

合宿所や遠征先の宿舎の食事はすべておいしく、食べ残すのに罪悪感を覚えた。あのころのことが、身にしみているからだろう。

と、綴っています。

「吉田義男は小学生の頃から野球に夢中だった!」に続く

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