1985年、再び、阪神タイガースの監督のオファーを受けた、吉田義男(よしだ よしお)さんは、まず最初に、コーチ陣を整備すると、次に、チームのメンバー編成に取り掛かったそうですが、3番ファーストで起用したランディ・バース選手は、実は、安藤統男前監督の来季構想では不要とされており、解雇されるところを、吉田さんが強く残留を訴えていたといいます。

「吉田義男は岡田彰布を外野手から二塁手に復帰させていた!」からの続き

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解雇寸前だったランディ・バースの残留を強く訴えていた

二塁手だった真弓明信選手をライトに回し、岡田彰布選手をライトから二塁手に戻した吉田さんは、遊撃手には元気者の平田勝男選手、捕手には1983年にドラフト1位で入団した木戸克彦選手、センターにはベテランの弘田澄男選手、レフトには佐野仙好選手、三塁手には掛布雅之選手を起用したそうですが、

一塁手には、安藤統男前監督の来季構想では不要とされていた、ランディ・バース選手を起用したそうです。

ランディ・バースの成績を上回る外国人選手を見つける自信がなかった

実は、バース選手は、来日1年目の1983年には、打率2割8分8厘、35本塁打、83打点、翌年の1984年には、打率3割2分6厘、27本塁打、73打点を記録するも、阪神球団は、走れない、守れない、バース選手の解雇を求めていたそうで、

吉田さんが、バース選手の打棒が絶対に必要だと、バース選手の残留を球団に強く求めていたのだそうです。

(吉田さんは、この成績を上回る外国人選手を見つける自信がなかったのだそうです)

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ランディ・バースは開幕戦から不振に苦しんでいた

そんな中、バース選手は、4月13日の広島戦との開幕戦(広島市民球場)で、左腕・大野豊投手に4打数ノーヒットに抑えられると、第2戦の試合前には、広島の先発がまたも左腕の川口和久投手だと分かるやいなや、ベンチ裏に吉田さんを呼んで、オーダーから外してくれと申し入れてきたそうですが、

(バース選手は大きな体に似合わず、とても繊細だったそうです)

吉田さんは、三番に据えた打者(バース選手)を相手投手の左右によって、使ったり外したりする訳にはいかないと、この申し出を受け入れなかったのだそうです。

「吉田義男は甲子園バックスクリーン3連発を見て鳥肌が立っていた!」に続く

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