1985年10月16日、阪神タイガースを、実に21年ぶりのリーグ優勝に導いた、吉田義男(よしだ よしお)さんは、その後、日本シリーズでも、西武ライオンズを下し、見事、球団初の日本一にも輝きます。

「吉田義男は1985年に阪神を21年ぶりのリーグ優勝に導いていた!」からの続き

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西武との日本シリーズ第6戦では初回に長崎啓二の満塁ホームランが飛び出していた

21年ぶりにリーグ優勝に輝いた吉田さん率いる阪神タイガースは、広岡達朗監督率いる西武ライオンズとの日本シリーズでも、そのままの勢いで、3勝2敗で日本一に王手をかけると、

迎えた1985年11月2日、第6戦、1回表、二死からランディ・バース選手が四球、掛布雅之選手が左前安打、岡田彰布選手がピッチャー強襲の内野安打で満塁とすると、続く長崎啓二選手が右翼席に満塁ホームランを放ち、一挙4点を先制。

その裏には、西武・1番の石毛宏典選手にホームランを打たれ、1点を返されるも、2回表には、またまた、二死から真弓明信選手がソロホームランを打って、突き放し(5対1)、5回表には、一死から真弓選手が四球、弘田選手が右前安打、バース選手が四球で満塁とすると、続く掛布選手が右犠飛を放ち、さらに1点追加します。(6対1)

最後はゲイルがピッチャーゴロに打ち取り球団初の日本一に

そして、7回表には、真弓選手が中前安打、弘田選手が送りバントの後、バース選手の右前安打で1点を加え(7対1)、9回表には、先頭打者の真弓選手が右越二塁打の後、二死からバース選手が渡辺久信投手から2ランホームランを放ち、9対3とリードを広げると、

9回裏には、ゲイル投手が、最後、伊東勤選手をピッチャーゴロに打ち取って試合終了となり、阪神は、球団初の日本一となったのでした。

1985年オフには選手に情が移って翌年に向けた「チームの土台作り」が進まなかった

ちなみに、吉田さんは、オフには、日本一という結果におごらず、もともとの目標だった「チームの土台作り」のため、より強いチームを目指して、補強の大なたを振るわなければならないと思っていたそうですが、

(チームをいじらないでおくと、選手が現状に安住してしまうため、慢心を防ぐためにも、勝っている時こそ、淀んでいる血を吐き出し、新しい血を導入しなければならないと考えていたそうです)

日本一の感激を味わわせてくれた選手たちに情が移り、引導を渡したり他チームに移籍させたりすることができなかったそうで、

結局、トレードで柏原純一選手(日本ハム)を、ドラフトで遠山昭治選手(八代一高)を獲ったくらいで、連覇を狙うには物足りない動きしか出来なかったそうです。

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1986年の投手陣はボロボロだった

特に、課題である投手陣の強化には、どれほど力を注いでもいいくらいだったそうですが、スタッフは前年と変わらなかったそうで、1986年のシーズンが始まると、案の定、ストッパーの中西清起投手の調子が上がらず、

(吉田さんいわく)前年、たかが13勝のゲイル投手はすっかりエース気取りで、起用法や遠征での待遇まで細かくクレームをつけてきたほか、池田親興投手は肩痛で戦列を離れ、

さらには、開幕直後からブルペン担当とした米田哲也コーチには、シーズン後、退団されてしまったのだそうです。

(米田コーチは、1985年、中西清起投手をストッパーに推薦し、21年ぶりのリーグ優勝と球団史上初の日本一に貢献していました)

「吉田義男は1985年に阪神を優勝させるも1987年には最下位に沈んでいた!」に続く

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