阪神では10年間で320本塁打して看板選手として活躍するも、1978年のシーズン終了後、阪神球団に、非常識にも、深夜に呼び出され、西武へのトレードを告げられたという、田淵幸一(たぶち こういち)さんは、一時は、引退することも考えたそうですが、西武の根本陸夫監督に会うと、その人柄に惹かれ、心境が一変したといいます。

「田淵幸一が阪神からトレードに出された理由とは?」からの続き

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西武は新球団だったためスター選手が欲しかった

西武は、この年、クラウンライターを買収して本拠地を福岡から所沢に移したばかりだったことから、ファンを呼べる新球団のスター選手が欲しかったそうで、

当初は、前年のドラフトで交渉権を獲得していた江川卓さんを当て込んでいたそうですが、入団交渉が難航を極めたことから、江川さん獲得は断念していたそうです。

西武・根本陸夫監督はどうしても田淵幸一を獲得したかった

そこで、監督兼GMだった根本陸夫さんは、ロッテからは山崎裕之選手と自由契約となった野村克也選手を獲得すると、阪神からは、ショートのレギュラーに成長したばかりの真弓明信さんと、主力級の若菜嘉晴さんら期待の若手をトレード要員としてまで、全国区のスターである田淵さんを獲得しようとしたのだそうです。

ちなみに、根本監督は、そこまでして、田淵さんを欲しがった理由について、

勝てるチームを作る。そのためには投打の両面で柱となり軸となる選手がいなくてはなりません。投の方には東尾修がいました。打つ方では他5球団を圧倒する選手が欲しい。それが田淵幸一でした。それとは別に田淵が持つ打つ以上の能力が欲しかった

と、明かしています。

(阪神からは、田淵さんと古沢憲司投手の2人、西武からは、竹田和史投手、若菜嘉晴選手、真弓明信選手、竹之内雅史選手の4人が出され、2対4のトレードとなりました)

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西武・根本陸夫監督の人柄に惹かれ移籍を了承していた

さておき、阪神球団から深夜にホテル阪神に呼び出されてトレード通告を受け、しかも、記者たちが大勢集まっている中、さらし者にされた田淵さんは、当初は、引退も考えていたそうですが、

阪神球団からの説得に徐々に態度を軟化させ、それから、1週間後、西武の根本陸夫監督と会談すると、

ひと目見て、ああこの人は頼れる人だなと思いました。この人の下でなら、散るまで、泥まみれになって野球ができるのではないか。西武に入ることで、僕の野球に対する姿勢ばかりか、人生観まで変わるのではないか。そんな気がしました

と、初対面にもかかわらず、根本監督の人柄を見て、心境が一変したのだそうです。

「田淵幸一は西武・堤義明オーナーの発想や理念に驚いていた!」に続く


(左から)阪神・小津球団社長、田淵さん、西武・根本陸夫監督。(1978年11月)

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