西武の根本陸夫監督の人柄に惹かれて、西武へのトレードを受け入れた、田渕幸一(たぶち こういち)さんは、1978年11月、西武に移籍すると、新球団である西武の堤義明オーナーの斬新な発想や理念などに驚かされたといいます。

「田淵幸一は根本陸夫監督に惹かれ西武への移籍を了承していた!」からの続き

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西武ライオンズ・堤義明オーナーの斬新な発想に衝撃を受けていた

深夜のトレード通告から20日後の12月5日、田淵さんは、古沢憲司さんと共に根本陸夫監督に伴われ、東京・神宮前の国土計画本社へ、西武グループの総帥・堤義明オーナーへ挨拶に赴いたそうですが、

堤オーナーからは、

田淵君、ホームランを打ったら、ゆっくりと走ってくれないか

と、言われたそうで、

田淵さんが「えっ」と首をかしげていると、

堤オーナーは続けて、

君がゆっくりとベースを回っている間に景気よく花火を打ち上げようと思っているんだ

と、言ったそうで、

田淵さんは、新しい球団である「西武ラインズ」の堤オーナーの発想に衝撃を受けたそうです。

(堤オーナーとの会談は15分程度で終わったそうですが、なぜか、この席に、阪神の球団社長・小津さんまでついてきたそうで、小津さんはその理由について、「選手はわが子のようなもの。ましてや田淵も古沢も長い間、阪神のために貢献してくれたのだから、親として当然のことをしたまでだ」とコメントし、記者たちから「放出しといて、よう言うわ」と冷笑されています)

西武ライオンズの堤義明オーナーは選手に品位を求めていた

また、堤オーナーは、

第一級のスポーツマンには高い品位がなくてはならない。野球人たる前に社会人たれ

という理念を持っていたことから、選手全員に意識改革が行われたそうですが、

それは、「初めて会う人には必ず名刺を差し出して挨拶する」というものだったそうで、その際の、お辞儀の仕方、頭を下げる角度、髪の長さ、爪を不潔にしていないかまで指導されるほか、色の違う幾つものブレザーとスラックスも支給され、遠征の際の移動には全員「制服」着用が義務づけられたのだそうです。

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球団披露パーティーが開催されるも選手紹介はされなかった

さらに、年が明けた1979年1月23日には、東京・芝の「プリンスホテル」で、政財界や芸能界から来賓5千人を招いて、球団披露パーティーが催されたそうで、

田淵さんは、真っ赤なブレザーに白のスラックス姿で壇上に並んだそうですが、選手紹介はなかったそうで、田淵さんは、この時、初めて、自分たちが一番ではない世界があることを知ったのだそうです。

(球団披露パーティーは午後1時から行われたそうですが、この日の午前中には、同じ場所で西武アイスホッケーチームの優勝祝賀パーティーが行われていたそうで、田淵さんたちライオンズの選手たちも出席していたそうですが、その席上、堤オーナーに、「君たちも目標を持った練習で鍛え、一日も早くこの壇に上がれるように。きょうはこの後、球団の披露パーティーがあるが、君たちの個人紹介はしない。それはペナントを獲得し、祝勝会を開くまでお預けとする」と、言われていたのだそうです)

「田淵幸一にとって根本陸夫は初めて「この人の為なら」と思える人だった!」に続く

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