1965年春、慶應戦で東京六大学野球リーグ第1号を放つと、その後も、安定したバッティングでホームランを量産した、田淵幸一(たぶち こういち)さんは、結局、大学4年間で22本塁打を放ち、それまでの東京六大学野球リーグ記録だった通算8本塁打を大きく更新します。
「田淵幸一はアジア大会日本代表に1年生で唯一選ばれていた!」からの続き
東京六大学記録の8本塁打を大きく上回る通算22本塁打を記録
1年生の時から4本のホームランを放つ活躍を見せ、途中から3番も打つようになった田淵さんは、2年生になると、4番に起用されたそうですが、その勢いは止まらず、
春のリーグ戦だけで3本塁打を放つと、秋のリーグ戦2カード目の1回戦の慶應戦では、延長11回に、藤原真投手からレフト芝生席にサヨナラ2ランホームランを放ち、立教の長嶋茂雄さん(現・巨人終身名誉監督)、 慶応の広野功さんに並ぶ、東京六大学野球最多の通算8号を記録。
そして、3年生の春には、慶應3回戦で、東京六大学新記録となる通算9号本塁打を放つと、1対1で迎えた延長11回にも、通算10号目となる本塁打放ち、その後も、
3年生の秋には3本、4年生の春には6本、秋には3本と本塁打を積み重ね、最終的には、大学4年間で通算22本塁打を記録します。
通算9号本塁打までは足踏み状態だった
とはいえ、東京六大学野球リーグ新記録となる通算9号本塁打は、2年生秋の慶応1回戦以来、21試合、91打席ぶりだったそうで、
長い間、足踏みが続き、右打ちを意識したり、夜中に起き出してバットを振ったりして、ようやく記録を更新したのだそうです。
通算9号本塁打を打った日は打てそうな予感があった
ただ、記録を更新したこの日はなんとなく打てそうな予感があったといいます。
実は、対戦相手だった慶應の先発が好きな藤原真投手だったほか、手にしたバットが、1年生の冬、「第4回アジア大会」で訪れたフィリピン・マニラで知り合い、文通していた女性からプレゼントされたもの(ルイスビル社製のバット)だったこと、
そして、この日は、お父さんの綾男さんが初めて試合を観に来てくれていたそうで、かなり気合が入っていたのだそうです。
(お父さんは、この頃、毎日新聞社系の新聞・雑誌卸業「東都春陽堂」の会長だったそうですが、田淵さんが、中学生の頃から病気がちだったそうで、この時、初めて試合を観に来てくれたのだそうです)
松永怜一監督や後輩の江本孟紀いわく田淵のバッティングは「天才型」
そんな田淵さんのバッティングを、
松永怜一監督は、
一見、おっとりしているようだが芯は強い子。素質はいわゆる天才型。彼がホームランを打てるのは、強い腕力、優れた眼、並外れたスポーツ神経にある
また、法政大の1年後輩の江本孟紀さんも、
信じられないホームランを何本も打った。それまでの打席で完璧に抑えられていたのに、走者が出ると逆転のホームランをかっ飛ばす。天才だから練習しなくても何でも出来た
と、絶賛しています。
(ただ、ダントツだった田淵さんの通算22本塁打の記録も、1997年には、慶応の高橋由伸さん(後に巨人)が通算23本を記録し、塗り替えられています)
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