阪神からドラフト1位で指名されるも、ドラフト前に一度も挨拶に来なかった不信感から、社会人野球に入るつもりだったという、田淵幸一(たぶち こういち)さんですが、希望球団である巨人の沢田幸夫スカウトと密会しようとしたところを報じられて、阪神に入団せざるを得なくなったといいます。
「田淵幸一を諦めきれない巨人は三角トレードを提案していた!」からの続き
巨人の沢田幸夫スカウトとの密会がスクープされる
ドラフト前に一度も挨拶に来なかったにもかかわらず、ドラフト当日、1位で指名してきた阪神タイガースに怒り、入団を拒否して、社会人野球に行くことを明言していた田淵さんですが、
1968年11月28日のスポーツ紙に「『巨人、田淵と接触』ドラフト制度に疑惑の行動-」(11月27日、田淵さんと巨人の沢田幸夫スカウトがホテルニューオータニで密会)とセンセーショナルが見出しが踊ります。
これを受け、沢田スカウトは、
球界の先輩として桑田(武)にアドバイスしようとホテルに行き、そこで偶然、田淵君に会って挨拶しただけ
と、釈明したのですが、
田淵さんはというと、
高田さん(巨人・高田繁=明大卒)を通じて、沢田さんが会いたいというので会いました。でも、何も話はしていません。ボクとしては巨人がどんなふうに考えているのか、聞きたかっただけです
と、あっさり、真相をバラしてしまったのだそうです。
阪神に入団せざるを得なくなっていた
すると、当時のドラフト制度でも、交渉は「交渉権を得た球団」にしか認めらていなかったことから、
鈴木竜二セ・リーグ会長は、
沢田君の疑惑を招く行動は非常にまずい
と、顔をしかめ、
田淵さんにも、「田淵はドラフトを潰す気か!」と非難の声が殺到したそうで、これには、田淵家も相当こたえ、11月28日の夜には、田淵さんの自宅で、法大の浦賢二郎理事、松永怜一監督を交えて約2時間の話し合いが行われると、田淵さんは、阪神に入団することを決意したのだそうです。
ちなみに、浦理事は、
私たちがドラフト制度というものを承知していながら、田淵君に『巨人に行け』というアドバイスはできないでしょう。制度がある以上、やはりその規則には従わなければいけない
と、入団理由を説明しています。
巨人の沢田幸夫スカウトとは本当は会えなかった?
ただ、田淵さんは、著書「我が道」では、
自宅に、前年(1967年)のドラフトで巨人に入った高田繁さんから電話があり、
(高田さんは、ライバルの明治大学の1年上の先輩だったのですが、田淵さんが高1の時に出場したアジア大会の時から親しくしていたそうです)
ウチ(巨人)のスカウトの沢田(幸夫)さんに会ってくれないか
と、言われたことから、
ドラフトから2週間後の11月26日、(希望球団の巨人に入れるかもしれない)淡い期待を抱いて、待ち合わせ場所の東京・紀尾井町のホテルニューオタニに出向くも、その日は、大洋(現・DeNA) から移籍した桑田武さんの巨人入団発表が同じホテルニューオタニで行われる予定だったため、集まって来ていた報道陣に、いきなり、捕まり、「何でここにいるの?」と、質問され、しどろもどろになって、慌ててエレベーターの前でUターンし、結局、沢田さんには会わずに帰ったと綴っており、
話が少し食い違っています。
「田淵幸一の背番号22は前々年ドラ1の西村公一から譲り受けたものだった!」に続く