1969年、当初は、次期監督の村山実さんを協力してほしいと言われるも、一転、現役を引退するよう迫られたという、吉田義男(よしだ よしお)さんは、引退後は、様々な球団からコーチとしてだけでなく、選手としてもオファーがあったそうですが、阪神以外のユニホームを着る気にはなれず、固辞すると、メジャーリーグを徹底的に見て回り、野球について改めてじっくり考えてみたいと、1970年から5年間、毎年渡米していたといいます。
現役引退後は阪急ブレーブスなど他球団からコーチのほか選手としてもオファーを受けるも固辞していた
吉田さんは、1969年をもって現役を引退すると、1970~1974年には、関西テレビで解説者として活動しつつ、兵庫県西宮市門戸厄神でステーキハウス「モンド」も経営していたそうです。
そんな中、1970年には、阪急ブレーブスの監督だった西本幸雄さんが、直接、「モンド」に来店して、内野コーチのオファーを受けたそうですが、その場で固辞したそうです。
(後に、西本さんが近鉄の監督に就任した際にも、コーチを打診されたそうです)
また、人を介し、非公式に他チームから選手としても打診があったほか、中日からもコーチの誘いを受けたそうですが、やはり、阪神以外のユニホームを着る気にはなれず、いずれも固辞したそうです。
メジャーリーグを見学し野球について勉強したいと思っていた
そんな吉田さんは、メジャーリーグを徹底的に見て回り、野球について改めてじっくり考えてみたい、という気持ちもあったそうで、
やるからには徹底していやりたいと、スプリングキャンプから始まって、オープニング、ピーク・シーズン、オールスター、優勝が決まってからの消化ゲーム、ワールドシリーズまで、一つのシーズン全てを見るため、(とはいえ、一年間通してそれを見るのは不可能なため)何年かに分けて分割して見ることにしたそうです。
1970年から5年間毎年渡米してメジャーの野球を勉強していた
こうして、吉田さんは、引退した翌年の1970年に渡米すると、大リーグ通の歯科医・今里純さんが各球団を紹介してくれたそうで、
ロサンゼルスでは、ドジャース球団職員のアイク生原さんにお世話になったそうですが、生原さんは、ドジャースのプレス・パスを毎年送ってくれたそうで、そのお陰で、1970年からの5年間、毎年渡米し、メジャーの野球をたっぷり勉強することができたのだそうです。
後輩・村山実の兼任監督を気の毒だと思っていた
ちなみに、吉田さんは、日米を足繁く往復している間も、やはり、阪神のことが気になったそうですが、後輩ながら、吉田さんを飛び越えて監督に就任した村山実さんは、監督と選手を兼任するプレイング・マネージャーとして2シーズンを指揮すると、1年目の1970年は2位となるも、1971年は5位に沈んだことから、
1972年、3シーズン目は、開幕直後から、自ら考案した投手陣立て直し策のため投手に専念したそうですが、同年、村山さんは現役を引退したそうで、
(金田正泰ヘッドコーチが監督代行を務め、その後、正式に監督に昇格)
吉田さんは、著書「牛若丸の履歴書」で、
村山が気の毒だった。草創期の人が足りない時ならともかく、人気球団の阪神で監督とプレイヤーを兼ねるのは、相当な激務である。経験や人間的な成熟が要求される監督という役割をこなすには、就任時33歳と若過ぎたとも思う。
と、村山さんを気遣っています。
「吉田義男は阪神監督第1期オファーをマスコミの人物から受けていた!」に続く