1954年に読売ジャイアンツ(巨人)に入団すると、巨人V9時代の正捕手として活躍し、引退後は、監督としても、西武ライオンズでリーグ優勝8回、日本一6回と黄金時代を築いた、森祇晶(もり まさあき)さん。そんな森さんは、小学4年生頃から野球を始め、中学2年生の時、一塁手や投手から捕手に転向していたといいます。

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年齢は?出身は?身長は?本名は?

森さんは、1937年1月9日生まれ、
岐阜県岐阜市の出身(大阪府豊中市生まれ)、

身長174センチ、
体重84キロ、

血液型はO型、

学歴は、
岐阜県岐阜市長森中学校
⇒岐阜県立岐阜高等学校卒業

ちなみに、本名は「森 昌彦(もり まさひこ)」で、「森祇晶(もり まさあき)」は監督としての登録名なのですが、西武から監督の要請を受けた際、棟梁(とうりょう)運がつくという理由から、「祇晶」としたのだそうです。

現役時代は「皆殺しの森」と呼ばれていた

そんな森さんは、現役時代は、「皆殺しの森」と呼ばれていたそうです。

というのも、森さんは、正捕手の座を獲得してからも、どれほど故障しても常に出場し続け、新人捕手たちにレギュラーをとる隙きを与えなかったそうで、そんな森さんの執念を見て、ファンは「皆殺しの森」と呼んだのだそうです。

(お兄さんの森和彦さんも、同じくプロ野球選手で、阪急に所属していたそうです)

幼少期は裕福な家庭で育つも・・・

森さんは、工業薬品の貿易商をしていたお父さんのもと、大阪府豊中市で誕生すると、お父さんは、海外に工場を持つなど手広く仕事をし、大阪で財界人として大活躍していたことから、裕福な家庭で何不自由なく育ったそうです。

太平洋戦争の影響で父親は財産をすべて失っていた

しかし、太平洋戦争が始まると、お父さんの工場は没収され、大阪は空襲で焼け野原となり、お父さんの店も焼失してしまったそうで、森さん一家は、お父さんの郷里である岐阜に疎開し、以降、岐阜に住むことになったそうです。

しかも、戦後は、貨幣価値が暴落し、お父さんが大阪から持って行ったお金も二束三文となって財産をすべて失ったそうで、森さんは、お母さんが家計を支えようと夜遅くまでミシンを踏む姿が今でも忘れられないそうです。

(戦後の物価上昇率は100倍とも言われ、貨幣価値が暴落したそうです)

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小学4年生頃から野球を始める

そんな中、森さんは、小学2年生の時に終戦を迎えると、小学4年生頃から、野球らしきものを始めたそうですが、物がない時代だったため、ボールやバットなどはなく、自分たちで竹やぶに行って竹を切ってバットを作り、田んぼで野球をしたそうで、

中学では野球部に入部すると、当初は、一塁手をやったり、投手をやったりしていたそうですが、中学2年生の時、その時の捕手があまりにも下手だったため、それなら、僕がやると、捕手に転向したのだそうです。

「森祇晶は家計を助けるためにプロ野球(巨人)入りしていた!」に続く

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