家庭の事情で大学進学を断念し、家計を助けるためにプロ野球(巨人)入りすると、1年目の6月から一軍に昇格するも、ブルペンキャッチャーの補充要員で、試合どころか練習を観察することさえ叶わず、プロ1年目の出場はわずか1試合のみだったという、森祇晶(もり まさあき)さんですが、雨で試合が中止になるたびに、エースの別所毅彦投手に投球練習の相手をさせられたことなどが功を奏し、入団5年目の1959年には、ついに正捕手に抜擢されます。
「森祇晶は家計を助けるためにプロ野球(巨人)入りしていた!」からの続き
エース・別所毅彦投手に気に入られてピッチング練習の相手をさせられていた
プロ1年目の6月に一軍に昇格するも、ブルペンキャッチャーの補充要員だったという森さんは、雨で試合が中止になると、必ず、エースの別所毅彦投手(のちに通算310勝を挙げる大投手)が車でやってきて、「お前受けろ」と言われ、ジャイアンツ多摩川練習場の近くの丸子橋の下に連れて行かれ、ピッチング練習の相手をさせられたそうですが、
丸子橋の下は、当然、整備などされておらず、地面は凸凹だったことから、森さんにとってかなり激しい特訓となったそうです。
ただ、森さんは、この時、キャッチングについて多くを学んだそうで、
僕はあの時に本当にプロというのは何かということを別所さんから教えられたんですよ。あの当時、練習をやる人はほとんどいなかったんですよ。
と、語っています。
(雨で試合が中止になると、選手はみな遊びに行っていたそうで、練習していたのは別所さんだけだったそうです)
ブルペン捕手をするかたわらメモをつけ続けリードを研究していた
また、当時、巨人は、ファースト・川上哲治選手、セカンド・千葉茂選手、ショート・平井三郎選手と、近寄りがたい人たちばかりで、サイン違いでも「お前が悪い」と怒られたそうですが、そんな中で揉まれながら色々なことを学んだそうで、2年目の1956年以降は徐々に出場機会を増やしていったそうです。
(それでも、巨人には、藤尾茂さんという強肩強打の正捕手がいたため、打撃ではかなわないと思い、ブルペン捕手をするかたわら、メモをつけ続け、リードの仕方を研究したのだそうです)
入団5年目の1959年に正捕手に抜擢されると巨人のリーグ優勝に貢献
そして、1959年、ついに森さんは正捕手に抜擢されると、緻密なリードと守備力で投手陣を牽引し、この年の巨人のリーグ優勝に貢献するのですが、
巨人の水原茂監督は、かねてより、森さんの明晰な頭脳から導かれるインサイドワークを高く買っていたそうで、強肩強打の藤尾さんを外野にコンバートして打撃に専念させ、森さんを正捕手に抜擢したのだそうです。
ちなみに、この年、27勝で最多勝に輝いた藤田元司投手によると、森さんは、望むコースに投げさせるため、全身を使って狙いやすく工夫をするなど、投手のコントロールを引き出す技術がずば抜けて優れていたといいます。
「森祇晶はドジャースとの合同キャンプで緻密な野球を身につけていた!」に続く