1985年4月、バラエティ番組「夕やけニャンニャン」で、「七三分け」に「黒縁メガネ」といった「真面目なおじさん」の外見にもかかわらず、司会の片岡鶴太郎さんのイジりに対するユーモアのある返しが人気を博し、たちまちブレイクした、逸見政孝(いつみ まさたか)さんですが、実は、この年(1985年)の8月12日、日航機(123便)墜落事故を奇跡的に免れていたといいます。
しかも、逸見政孝さんは、この「日本航空123便」に乗りたがっていたといいます。
今回は、逸見政孝さんが、希望しつつも、「日本航空123便」への搭乗を回避し、九死に一生を得た経緯についてご紹介します。
「逸見政孝の死因はスキルス胃ガン!最後は壮絶な闘病生活を送っていた!」からの続き
逸見政孝は「日本航空123便」に乗ることを希望していた
1985年8月12日午後6時12分、日本航空123便(ボーイング式747SR-100型JA8119)は、東京・羽田空港を離陸し、大阪・伊丹空港に向けて航行するも、
午後6時25分頃、伊豆半島南部の東岸上空に差し掛かる直前に操縦不能となると、午後6時56分頃、群馬県多野郡上野村山中に墜落。
乗客乗員524名のうち520名が死亡する(生存者はたったの4名)という、単独機で世界史上最悪の死者数を出しているのですが(「日本航空123便墜落事故」)、
逸見政孝さんは、この「日本航空123便」に乗ることを希望していたというのです。
逸見政孝は大阪に帰省するのに「日本航空123便」を希望していたが満席で取ることができなかった
逸見政孝さんは、1985年の夏休み、妻、息子、娘の4人で、実家のある大阪に、飛行機で帰省する予定をしていたそうですが、逸見政孝さんは、なぜか、羽田発伊丹行の「日本航空123便」を希望していたといいます。
(おそらく、逸見政孝さんは、自身の愛称「いっつみい(It’s me)」の語呂合わせである「123」にこだわったと思われます)
ただ、奥さんがその便を予約しようとすると、すでに満席で、予約を取ることができなかったのだそうです。
逸見政孝の妻は実母の言葉で飛行機ではなく新幹線で行こうと思い直していた
そして、その後、奥さんが、近所に住む実母に、夫(逸見政孝さん)の実家に帰省する件について話をすると、
4人で飛行機に乗って、もし事故でも起きたらどうするんだい
と、言われたそうで、
奥さんは、そのお母さんの一言に重みを感じ、新幹線にしようと考え直したのだそうです。
(逸見政孝さんは、「日本航空123便」にこだわっていたそうなので、おそらく、「日本航空123便」のキャンセル待ちをしていたのではないかと思われます)
逸見政孝の妻の母には霊感があった
実は、長男の太郎さんによると、おばあさん(逸見政孝さんの奥さんの実母)は、東京世田谷区奥沢でよろず屋を営んでいたそうですが、
店は十字路のすぐ脇にあり、そこには、太郎さんが知っているだけで3回も車に突っ込まれ、その度に店はめちゃくちゃになったそうですが、
いつもは店番をしているおばあさんが、その時に限って近所で世間話をしていて助かっていたそうで、そんなおばあさんの言葉だからこそ、お母さんも飛行機で行くことに不安を感じ、新幹線で行こうと考えたのでは、とのことでした。
(おばあさんには霊感があり、不思議な存在だったそうです)
逸見政孝は妻に説得されて新幹線で帰省していた
ただ、逸見政孝さんは、テレビでは朗(ほが)らかでユーモアのある印象も、家では笑顔をほとんど見せず、頑固一徹(いってつ)の亭主関白だったそうで、
自分が決めたことに、不用意に口出しすると怒り出したことから、奥さんは、「お母さんが言っていたから」と言うことはできなかったそうです。
(もし、そう言っていたら、逸見政孝さんは、「お前たちは新幹線で行け、お父さんは1人で飛行機で帰る」と言い出しかねなかったそうです)
そこで、奥さんは、
4人だし、飛行機よりも新幹線のほうが安いから
と、言って、逸見政孝さんを説得したそうで、
これが功を奏し、逸見政孝さん一家は、新幹線で無事、大阪に帰省したのだそうです。
逸見政孝は「日本航空123便」の搭乗を回避し九死に一生を得たことよりも実況中継が気になっていた
ちなみに、逸見政孝さん一家が、「日本航空123便」が墜落したことを知ったのは、大阪の実家に着いてからだったそうですが、
長男の太郎さんは、その時のお父さんの様子を、
自分が乗るかもしれなかったという驚きもあったでしょうね。よく覚えているのは、お盆休み中、父がずっとやきもきしていたことです。テレビや新聞を頻繁に見たりして、話しかけても上の空だったし。
局から東京に戻れという指示はなかったのだと思いますが、やはり現場から伝えたかったんじゃないでしょうか(フジテレビでは、露木茂アナウンサーが日航機墜落事故について伝えていました)
と、語っており、
逸見政孝さんは、「日本航空123便」の搭乗を回避し、九死に一生を得たことよりも、実況中継が気になっていたようです。
また、太郎さんは、
父がフリーになって初めて買った車が、メタリックシルバーのベンツでした。それにつけたナンバーが“123”だった。“イッツミー”の語呂合わせ。
大阪人特有の笑わせてナンボということだったんでしょうが、それにしても123便とは妙な符合ですよね
とも、語っており、
逸見政孝さんは、その後、フジテレビを退社してフリーになり、初めて買ったベンツのナンバーを「123」にしていたそうなので、「123」を、墜落した日航機の番号で不吉と感じるよりも、自身の愛称の「いっつみい(It’s me)」の語呂合わせにこだわっていたようです。
(逸見政孝さんは、自身の会社も「オフィスいっつみい」としていました)
「逸見政孝の妻との馴れ初めは?息子は逸見太郎!娘は逸見愛!」に続く
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