1975年、双子の弟・おすぎさんとのコンビ「おすぎとピーコ」として本格的に芸能界デビューすると、たちまちブレイクし、1982年、コンビ解消後は、ワイドショーやバラエティ番組で、ファッションチェックを担当するほか、コメンテーターとしても活躍した、ピーコさん。

今回は、そんなピーコさんの若い頃からの活躍や経歴を、デビュー前から時系列でまとめてみました。

ピーコ

「ピーコの生い立ちは?高卒後トヨタ就職も退職し文化服装学院で学んでいた!」からの続き

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ピーコの20代の頃

26歳の時に女優の衣装制作を双子の弟・おすぎに依頼されていた

ピーコさんは、1971年、26歳の時、双子の弟でテレビ制作の仕事をしていたおすぎさんから、女優の岡田茉莉子さん主演でロシアのドラマを制作するにあたり、時代物のロシアのマントが必要なため、制作するか探してきてほしいと電話で依頼を受けたそうで、

洋服関係で親しくなった友人たち何人かに相談し、(時代物のロシアのマントがどんなものか知らなかったそうですが)長い丈の円形に裁断したコートを持ってきてもらうと、そこに毛皮で縁取ったフードをつけるなど、いろいろと細工をし、つぎはぎで作ったフランケンシュタインのようなロシアのマントを、ロケ地にいるおすぎさんに送ったそうですが、

後日、おすぎさんからは、岡田茉莉子さんが、

これこれ、やっぱりロシアのマントはこうでなくっちゃ

と言って、とても気に入ったと聞いたそうで、うれしかったそうです。

そんなピーコさんは、この一件をきっかけに、様々な衣装を作り始めることになったそうですが、

(おすぎさんがいろいろな俳優からオーダーを頼まれてのことだったそうです)

実は、ピーコさんは縫うのが下手だったため、実際の作業は、ピーコさんが指示を出しながら、縫製の仕事をしていた2番目のお姉さんに作ってもらっていたそうです。

20代の時にはDJ、音楽雑誌の執筆もしていた

こうして、「衣装デザイナー」として芸能界に足を踏み入れたピーコさんですが、衣装制作の関係で、音楽業界の人たちとも知り合いになり、ある時、ビクターの人から、

DJやってみない?

と、誘われたそうで、

ピーコさんは、その頃、ちょうど、人前で話すことに興味を持っていたことから、二つ返事で了承すると、銀座のビクターのショールームに自分の好きな曲の入ったレコードを持っていっては、道行くサラリーマンを相手におしゃべりしたのだそうです。

また、音楽業界のつながりで、音楽雑誌「ミュージック・ライフ」に執筆も依頼されると、(音楽の評論ではなく)ミュージシャンのマネをするにはどうすればいいか、という読者のニーズに応えるため、「エアロスミスのステージ衣装の作り方」「キッスのお化粧の仕方」などファッションを絡めた話を執筆したのだそうです。

ピーコの30代の頃

30歳の時に双子の弟・おすぎとともに「おすぎとピーコ」として本格的に芸能界デビュー

ピーコさんは、1975年、30歳の時には、双子の弟・おすぎさんとコンビを組み、「おすぎとピーコ」として本格的に芸能界デビューを果たします。

実は、おすぎさんは、「歌舞伎座テレビ室」(テレビ番組のプロダクション)に勤めていたのですが、そのうち、映画の宣伝部の人と親しくなると、フリーパスでどの映画も試写会で観られるようになったそうで、

(もともと映画が好きだったため)試写室に入り浸るようになっていったそうですが、試写会の間のおしゃべりがとても面白いということで、ラジオ番組のゲストに誘われたそうです。

ただ、おすぎさんは、「一人じゃ、イヤ」と言ったため、ピーコさんも誘われ、二人でラジオ番組「一慶・美雄の夜は友達」に出演すると、これがウケて、次の週も、さらに次の週も呼ばれ、結局、4週連続で出演するうち、いつのまにか、レギュラーになっていたのだそうです。

35歳の時に「おすぎとピーコ」でブレイクしていた

こうして、ピーコさんはおすぎさんと一緒に活動するようになると、1980年(35歳)前後には、軽妙な掛け合いで、一躍、ブレイクを果たします。

おすぎとピーコ

ただ、おすぎさんとはずっと一緒にいたことから、しょっちゅうケンカをしていたのだそうです。

それでも、自分たちの意志とはほとんど関係なしに、次から次へと仕事が入ってきたそうで、イヤでも、おすぎさんとずっと一緒にいなければならなかったそうで、

しかも、「おすぎとピーコ」はもともとはおすぎさんがメインのコンビだったそうで、デビューしてしばらくした頃には、

テレビのディレクターから、

なんで才能がない君が、おすぎの足をひっぱってるの?なんで「おすぎとピーコ」なの?おすぎだけでいいじゃない

と、言われたこともあったそうで、

ピーコさん自身、半分、そう思っていたところもあり、周囲からそのようなことをチクチク言われているうちに、どんどん気持ちが落ち込んでいったそうです。

37歳の時に取っ組み合いの大ゲンカをしたことがきっかけでおすぎとコンビを解消していた

そんな中、ピーコさんは、1982年、37歳の時には、地方の仕事やステージでおすぎさんと1日中一緒にいるのが、吐き気がするほどイヤになっていたそうで、

3日以上、仲が良かったためしがなく、些細なことでケンカばかりし、おすぎさんとの仲は悪化するばかりだったそうですが、ある時、宿泊先のホテルの一室でおすぎさんと取っ組み合いの大ゲンカをしたといいます。

その時は、幸いにも、部屋におすぎさんの友達がおり、ケンカを止めてもらったそうですが、もしその友達がいなかったら、首を絞めてどちらかが死んでいたのでは、と思うほどのものすごいケンカだったそうです。

(大ゲンカとなった理由はもう覚えていないほど、些細なことだったそうです)

このことがきっかけとなり、ピーコさんは、おすぎさんに、仕事は少なくなるが個々でやろう、そのほうがお互いのためだと伝えると、おすぎさんも同じ意見だったことから、

それからというもの、「おすぎとピーコ」というコンビの仕事はどんどん断ったそうで、やがて、ピーコさんはファッションの仕事へ、おすぎさんは映画の仕事へとお互いの仕事の方向を明確にしたのだそうです。

ピーコの40代~60代の頃

40歳~60歳まで、ワイドショーの「辛口ピーコのファッションチェック」で人気を博す

その後、ピーコさんは、1980年代半ば頃(40歳)、朝のワイドショーで、皇室一家や芸能人の装いを見てコメントをしたことがきっかけとなり、

(ピーコさんは、番組名までは覚えていないとのこと)

それから数年後、ワイドショー「3時にあいましょう」で、素人の服装に対して、コメント、批評するコーナー「辛口ピーコのファッションチェック」がスタート。

ピーコ

すると、この「辛口ピーコのファッションチェック」は、「3時にあいましょう」⇒「スーパーワイド」⇒「ビッグトゥデイ」⇒「2時のホント」⇒「ジャスト」⇒「F2スマイル」へと、局をまたいでコーナーが引き継がれ、2005年まで続く人気コーナーとなったのでした。

(その後も、何度か、バラエティ番組などで1日限りの復活を果たしています)

63歳の時に「とくダネ!」「FNNスーパーニュースアンカー」「ちちんぷいぷい」でコメンテーター

ピーコさんは、2008年、63歳の時には、「とくダネ!」「FNNスーパーニュースアンカー」「ちちんぷいぷい」に出演しているのですが、

月曜日の午前中に「とくダネ!」へ出演すると、その後、新幹線で大阪に移動して、夕方から「FNNスーパーニュースアンカー」でコメンテーターを務め、

そのまま大阪で1泊し、15時からは、3時間に渡り、「ちちんぷいぷい」に出演するという、売れっ子ぶりでした。

ピーコ
「ちちんぷいぷい」に出演するピーコさん。

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ピーコの70代(現在)

そんなピーコさんは、70代に入ってからも精力的に芸能活動を行っていたのですが、2021年夏、76歳の時、双子の弟のおすぎさんに認知症の兆しが見られたことから、おすぎさんの介護のため、レギュラー番組を降板し芸能活動を休止しています。

(2021年12月、バラエティ番組「5時に夢中!」への出演が最後となっています)

こうして、おすぎさんの身を案じ、おすぎさんと同居を始めたピーコさんですが・・・

この同居生活をきっかけに、再び、兄弟仲が悪化し、ピーコさんにまで認知症の症状の一つである、思い込みと妄想癖の症状が現れてしまったそうで、2022年2月には、同居生活を解消したそうです。

そんな中、ピーコさんは、2023年4月、78歳の時には、

3月下旬から自宅から姿を消し、行方不明になっている

と、「週刊女性」により報じられます。

ただ、「爆報! THE フライデー」のスタッフがピーコさんとおすぎさんの親しい関係者と連絡を取ると、ピーコさんは高齢者施設に入所していることが確認されています。

「ピーコはおすぎの介護のため芸能活動を休止するも自身も認知症を発症していた!」に続く

お読みいただきありがとうございました

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