現役引退後は、中日、近鉄、ダイエーの3球団で投手コーチを歴任すると、1998年には、横浜ベイスターズで、バッテリーコーチを経て、横浜の監督に就任し、「マシンガン打線」と呼ばれる切れ目のない強力な攻撃陣と、盤石な分業制の投手陣をまとめあげ、チームを38年ぶりのリーグ優勝、日本一に導いた、権藤博(ごんどう ひろし)さん。
今回は、そんな権藤博さんの、妻、子供、そして結婚前に婚約していたという作詞家・作家の山口洋子さんとの関係についてもご紹介します。

「【画像】権藤博の若い頃(コーチ&監督時代)から現在までの経歴を時系列まとめ!」からの続き
権藤博の妻は?
権藤博さんは、奥さんとは、社会人野球時代に知り合い、プロ入り4年目の1964年に結婚したようですが、権藤博さんはプライベートをほとんど明かしていないため、どのように知り合い、いつ頃から交際して、どのような経緯で結婚に至ったかは不明です。
権藤博の子供は娘2人?次女は外資系会社社長の権藤嘉江子!
権藤博さんには、少なくとも娘さんが2人いるようですが、子供についても、奥さん同様、ほとんど明かしていないため、詳細は不明です。
ちなみに、権藤博さんの次女は、1968年に誕生した、権藤嘉江子(ごんどう かえこ)さんです。
権藤嘉江子さんは、三菱銀行、ブルガリジャパン、クリストフなどの勤務を経て、2002年には、LVJグループ社長室長、2004年には、LVMHグループのエミリオ・プッチカンパニーのプレジデント&CEOを務めた経歴を持ち、
欧州ラグジュアリーブランドのリテールビジネス領域に尽力して、日本への普及活動とブランドの育成に貢献し、2018年からは、グラフィック・パッケージング・インターナショナル代表取締役社長を務めているそうです。

権藤博さんの次女・権藤嘉江子さん。
また、権藤博さんは、横浜監督時代、フロントにわだかまりを持ち、引退を考えていたというロバート・ローズ選手の心情を察し、1対1で腹を割った話し合いをしようと、球団が雇った通訳ではなく、娘のみを同伴し、話し合いをしたそうですが、
権藤嘉江子さんは英語が堪能なため、権藤嘉江子さんがその時の娘さんだった可能性が高いと思われます。
(以来、ロバート・ローズ選手は「権藤が監督でいる間は引退を考えないようにするよ」と、権藤博さんに全幅の信頼を置き、「最高のボス」と慕ったといいます)
権藤博は作詞家・作家の山口洋子と婚約していた
ちなみに、権藤博さんは、結婚する前(中日ドラゴンズに入団して1、2年目のエースとして活躍していた頃)、作家で作詞家の山口洋子さんと婚約していたと言われています。

山口洋子さん。
権藤博さんと山口洋子さんは、山口洋子さんが10代の頃に名古屋で経営していたカフェで知り合ったそうで、
(その店は中日ドラゴンズの選手のたまり場になっていたそうです)
その後、山口洋子さんが銀座でクラブ「姫」を経営するようになると、権藤博さんが常連客として足繁く通ううちに2人は交際&婚約に発展。
その後、山口洋子さんは、権藤博さんとの結婚を真剣に望み、水商売から足を洗って家庭に入ろうと考えていたそうですが、権藤博さんのお母さんの猛反対に遭ったそうで、
山口洋子さんは、自伝やエッセーで、
彼の実家のお義母さんに結婚を許してもらうには、良き妻を演じなければいけない。そのために夜の女のままではいけない。今すぐ銀座から離れなければいけない
と、繰り返し綴っています。
権藤博と山口洋子の破局の原因は?
ただ、結局、破局し、結婚には至らなかったのですが、実際には、別の理由があったといいます。
山口洋子さんによると、権藤博さんとの結婚のため、店をたたみ、銀座から離れていた時期、クラブ「姫」の元ホステスが恋愛相談に訪ねてきたことがあったそうですが、
その元ホステスが身につけていた金のネックレスが、なんと、山口洋子さんが権藤博さんにプレゼントしたものだったそうで、
山口洋子さんは、著書「ザ・ラスト・ワルツ『姫』という酒場」で、
少し太めのチェーンの先についている同じ18金のメタル、私が愛しい男のために自分で買ったものを、どう見間違う筈がある。
(中略)そういうと、このところ見ていない。どうしたのと何かの拍子に訊ねたら、鎖が切れたんだとかいっていた。切れたのは鎖じゃなくて、私との絆なのだ
と、綴っています。
権藤博は山口洋子に婚約不履行の訴えを起こされていた
そして、話の流れで、この元ホステスに相手の名前を尋ねると、元ホステスは権藤博さんの名前を口にしたそうで、
(権藤博さんと山口洋子さんの関係については知らなかったようです)
山口洋子さんは、苦しみぬいた挙げ句、権藤博さんに対し、婚約不履行の訴えを起こすと、権藤博さんから和解金500万円を受けたそうで、そのお金でクラブ「姫」を再開させたのだそうです。
ちなみに、山口洋子さんは、その時の心情について、著書「ザ・ラスト・ワルツ『姫』という酒場」で、
いっそのことひどい悪女を演じぬかなければ、未練も断てない。男の前でいままで虫も殺さぬ可愛い女が、がらりと豹変してみせたのだ
と、綴っています。
権藤博は山口洋子のお別れ会で弔事を読んでいた
こうして、泥沼の破局劇となった権藤博さんと山口洋子さんですが、後年は関係を修復させて良き友人となったそうで、文芸誌で対談まで行っています。
また、2014年に山口洋子さんが他界すると、権藤博さんは、お別れ会に参加して、一番最初に弔事を述べているのですが、
その内容とは、
50有余年、何をしゃべっていいかわからないくらい、思い出がある
と、なんとも言えない様子で切り出すと、
『(山口洋子さんが作詞した五木ひろしさんの楽曲)よこはま・たそがれのモデルは俺か?』って尋ねると『バカっ』って怒られました
と、一転、おどけたように言い、
(場内が大きな笑いに包まれたそうです)
最後には、
クラブでトップに立ち、作詞でトップに立ち、作家でトップに立った。波瀾万丈の3冠王でしたね
ゆっくり休んで……お休みなさい
と、野球人らしく締めくくったといいます。
(山口洋子さんの著書の中では権藤博さんの実名は記載されておらず、すべて「F」となっています)
さて、いかがでしたでしょうか。
権藤博さんの、
- 権藤博の生い立ちは?高2で内野手から投手に転向!高3で西鉄の練習に参加していた!
- 権藤博のプロフィール
 - 権藤博は小学3年生の時に父親が病死し母親に女手一つで育てられていた
 - 権藤博は小学生の時に野球を遊びで始めると、中学生の時に本格的に始めていた
 - 権藤博は高校1年生の夏に野球部に入部していた
 - 権藤博は高校2年生の秋に内野手から投手に転向していた
 - 権藤博は高校3年生の夏には西鉄ライオンズ(現・西武)の練習に参加していた
 
 - 権藤博の若い頃は?社会人(ブリヂストンタイヤ)時代を時系列まとめ!
- 権藤博は高校卒業後は西鉄ライオンズを断り、社会人野球のブリヂストンタイヤに入社
 - 権藤博は社会人(ブリヂストンタイヤ)1年目(19歳)は体力づくりのため毎日走り込みをしていた
 - 権藤博は社会人(ブリヂストンタイヤ)3年目(21歳)はほとんど打たれなかった
 - 権藤博は社会人(ブリヂストンタイヤ)4年目(22歳)には延長10回無失点の快投で一躍全国に名前が知れ渡っていた
 
 - 【画像】権藤博の若い頃(現役時代)の成績は?ルーキーで35勝!2年目も30勝!
- 権藤博は1年目(22歳)から凄まじい成績を残していた
- 22歳の時に中日ドラゴンズに入団
 - 22歳の時(入団1年目)には69試合に登板し、35勝19敗、310奪三振、防御率1.70という凄まじい成績を残していた
 
 - 権藤博は2年目(23歳)の時にも最多勝ほか素晴らしい成績を残していた
 - 権藤博は3年目(24歳)に酷使により肩を痛め、成績が急降下していた
 - 権藤博は酷使に次ぐ酷使で「権藤、権藤、雨、権藤」と言われていた
 - 権藤博は5年目(26歳)の時には投手から内野手に転向していた
 - 権藤博は7年目(28歳)の時にはセ・リーグ最多犠打を記録するも打率1割台に終わっていた
 - 権藤博は8年目(29歳)の時には杉下茂監督の勧めで再び投手練習を始めるも右肩が痛み始めていた
 - 権藤博は9年目(30歳)の時に現役を引退していた
 - 権藤博の現役時代の成績
 
 - 権藤博は1年目(22歳)から凄まじい成績を残していた
 - 【画像】権藤博の監督・コーチ時代から現在までの経歴を時系列まとめ!
- 権藤博の30代の頃(現役引退後)
- 31歳~34歳の時に東海ラジオで野球解説者として活動していた
 - 31歳~34歳の時にはサラリーマンをしていた
 - 34歳の時に中日の二軍投手コーチに就任
 
 - 権藤博の40代の頃
- 42歳の時に一軍投手コーチに就任し投手分業制を確立
 - 49歳の時に近鉄一軍投手コーチに就任
 
 - 権藤博の50代の頃
- 50歳の時に近鉄の9年ぶりのリーグ優勝に貢献
 - 50歳の時に近鉄のコーチを辞任
 - 52歳の時にダイエーの一軍投手コーチに就任
 - 58歳の時に横浜ベイスターズの一軍バッテリーチーフコーチに就任
 - 59歳の時に横浜ベイスターズの監督に就任すると1年目にして38年ぶりのリーグ優勝&日本一に導いていた
 
 - 権藤博の60代~70代の頃
- 62歳~73歳の時には評論家として活動していた
 - 73歳の時に中日ドラゴンズの一軍投手コーチに再び就任
 - 74歳の時に評論家に復帰
 - 77歳で日本代表の投手コーチに就任すると小久保裕紀監督が舌を巻く驚きの手腕を発揮していた
 
 - 権藤博の80代(現在)
 
 - 権藤博の30代の頃(現役引退後)
 - 権藤博の妻は?娘は外資系社長!山口洋子に婚約不履行で訴えられていた!
- 権藤博の妻は?
 - 権藤博の子供は娘2人?次女は外資系会社社長の権藤嘉江子!
 - 権藤博は作詞家・作家の山口洋子と婚約していた
 - 権藤博と山口洋子の破局の原因は?
 - 権藤博は山口洋子に婚約不履行の訴えを起こされていた
 - 権藤博は山口洋子のお別れ会で弔事を読んでいた
 
 
について、ご紹介しました。
プロ1年目にいきなり35勝を挙げて新人王に輝くも、「権藤、権藤、雨、権藤」と呼ばれるほどの酷使により5年で投手生命を終えるなど、短くも鮮烈な現役生活を送ると、
現役引退後も、近鉄では、吉井理人投手をクローザーに育て上げてリーグ優勝に貢献し、横浜ベイスターズでは、監督就任1年目にして38年ぶりのリーグ優勝&日本一という偉業を成し遂げるなど、指導者としても素晴らしい実績を残した権藤博さん。
そんな権藤博さんは、77歳の時にも、請われて侍ジャパンの投手コーチを務めているのですが、今後も、末永く、その豊富な経験と知識を野球界に注ぎ続けてもらいたいものです。
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1961年に中日ドラゴンズに入団し、1年目から35勝19敗、防御率1.70の成績で、最多勝、最優秀防御率、新人王を獲得すると、2年目も30勝17敗で2年連続最多投手となり、連日の登板から「権藤、権藤、雨、権藤」という流行 …








