1948年、8歳の時、童謡歌手としてデビューすると、10歳~11歳の時には、「ひばりと麦笛」「ママのおひざ」「子鹿のバンビ」などを歌唱し、次々と大ヒットを飛ばした、古賀さと子(こが さとこ)さん。
今回は、そんな古賀さと子さんの若い頃からの活躍や経歴を、生い立ちを交えて幼少期から時系列でまとめてみました。
古賀さと子のプロフィール
古賀さと子さんは、1940年10月14日生まれ、
東京市(現在の東京都)板橋区出身、
学歴は、
上野学園高等学校音楽科卒業、
ちなみに、本名は、古賀達子(こが さとこ)、
お姉さんは、田原総一朗さんの妻で、アナウンサー・エッセイストの田原節子さんです。
古賀さと子は4歳の時に疎開先の納屋の窓からよく童謡を歌っていた
古賀さと子さんは、ピアノ調律師のお父さんのもと、3人姉妹の末っ子として誕生すると、太平洋戦争中(4歳)には、疎開先の納屋の窓から童謡をよく歌っていたそうですが、
道行く人達が足を止め、そのかわいらしい歌声に聞き惚れたそうで、古賀さと子さんが、さらに身振り手振りをつけながら歌うと、たちまち拍手が沸き起こったそうです。
ただ、それを見ていたお母さんには、叱られることがあったほか、
姉の田原節子さんから、
はずかしくないの?
と、聞かれると、
古賀さと子さんは、
みんなにきいてもらえてすごくうれしい!
と、目を輝かせながら答えたといいます。
古賀さと子は8歳の時に童謡歌手としてデビュー
すると、そんな古賀さと子さんの才能に、いち早く気がついたお父さんは、自宅のピアノで個人レッスンをしたほか、小学2年生の時には、仕事仲間の紹介で、「さくら子供会」という合唱団に入れたそうで、
(お父さんは、かつて、歌手を目指していたそうです)
古賀さと子さんは、その後、作曲家・保田正さんに師事し、歌の勉強をすると、1948年、8歳の時には、保田正さんの紹介により、ビクターの専属となり、童謡歌手としてデビューを果たしたのでした。
また、その後、オペラ劇「夕霧」への出演が決まると、大役である独唱のシーンを務めることになったそうですが、
古賀さと子さんは、見事に歌いきったそうで、お父さんは、その姿を見て感激し、何度も「うん、うん」とうなずいたといいます。
古賀さと子が10歳、11歳の時には「ひばりと麦笛」「ママのおひざ」「子鹿のバンビ」などが大ヒット
そんな古賀さと子さんは、デビューするや、大きなリボンがトレードマークの愛らしい姿でたちまち人気を博し、
- 1951年5月(10歳)には、「ひばりと麦笛」
- 1951年10月(10歳)には、「ママのおひざ」
- 1952年3月(11歳)には、「子鹿のバンビ」
などが大ヒットを記録。
「子鹿のバンビ」より。
また、古賀さと子さんは、NHKテレビ開局当日の1953年2月1日に、NHKに出演して歌唱すると、
NHKラジオ番組「ピーコポン太郎世界めぐり」でピー子役と主題歌を担当するほか、「ヤン坊ニン坊トン坊」「仲よし歌日記」などの主題歌も歌唱しています。
古賀さと子が13歳~19歳の時には映画「お母さんの黒板」「オーケストラの姉妹」などで大人気
また、古賀さと子さんは、1954年、13歳の時には、東映映画「あゝ洞爺丸」に出演すると、1995年には、松竹と契約し、
以降、
- 1955年(14歳)には、「素晴らしき招待」
「素晴らしき招待」 - 1955年(14歳)には、「愛の一家」
- 1956年(15歳)には、「白い橋」
- 1956年(15歳)には、「東京チャキチャキ娘」
- 1956年(15歳)には、「お母さんの黒板」
「お母さんの黒板」 - 1956年(15歳)には、「スタジオ超特急 女優誕生」
- 1957年(16歳)には、「オーケストラの姉妹」
- 1958年(17歳)には、「見事な求婚」
- 1958年(17歳)には、「泣き笑い日本晴れ」
- 1959年(18歳)には、「ふるさとの風」
- 1959年(18歳)には、「朝やけ雲の決闘」
「朝やけ雲の決闘」
などに出演しています。
(古賀さと子さんは、「朝やけ雲の決闘」を最後に松竹を退社しているのですが、1971年には、当時、東京12チャンネルのディレクターをしていた、田原総一朗さん(後の義兄)が監督を務める「あらかじめ失われた恋人たちよ」に出演しています)
そんな古賀さと子さんは、1950年代、絶大な人気を博し、ラジオやテレビに出演するなど多忙な日々を送っていたそうで、学校の講堂やデパートの屋上の特設ステージなどに登場すると、たくさんのファンがつめかけ、声援が飛び交っていたそうです。
また、当時の少女向け雑誌ではグラビアに多数取り上げられ、人気投票では松島トモ子さん、近藤圭子さんとともに常に上位にあがっていたそうです。
「少女クラブ」の表紙を飾る古賀さと子さん。
古賀さと子は18歳の時に姉・田原節子と共に「平凡」創刊号のグラビアに登場していた
そして、1959年には、日本テレビにアナウンサーとして入社した姉の田原節子さんと共に、「平凡」創刊号のグラビアにも登場したのでした。
(田原節子さんは古賀さと子さんの姉としてメディアに大きく注目されたそうです)
古賀さと子が20歳~30歳の時にはステージ中心に活動していた
そんな古賀さと子さんは、1960年代には、「家族ファミリーコンサート」など、主に、ステージや舞台、ライブで活動し、1969年、28歳の時には、銀座のコーラス喫茶で歌っていたそうです。
古賀さと子は30歳の時にシャンソン歌手に転向していた
そして、1970年、30歳の時には、シャンソン歌手に転向すると、同年には、東京都渋谷の「ジァン・ジァン」でリサイタルを開催し、童謡をはじめシャンソンなどを披露したそうで、
古賀さと子さんは、インタビューで、
当時の童謡を聴いて(自分が)一生懸命歌っているのはわかるが、今(1970年)に歌えば全然違うと思う。今回のリサイタルはそこが狙いで、童謡というより日本の名曲集。
と、語っています。
古賀さと子は31歳で歌手活動を休止
以降、古賀さと子さんは、シャンソン歌手として舞台などでライブ活動をするようになっていたのですが・・・
1972年、31歳頃には歌手活動を休止しています。
古賀さと子は55歳で死去
その後、古賀さと子さんは、慢性肝炎を患い、療養生活を送るようになっていたそうで、1996年5月には、容体が急変し、5月25日、入院先の病院で、55歳で他界されたのでした。
ちなみに、その死は長らく公開されず、2004年、ようやく、姉でエッセイストの田原節子さんの著書「最期まで微笑みを」で明らかにされており、
本書によると、田原節子さんが付き添いの者から聞いた話として、
古賀さと子さんが亡くなる直前、ナースステーションに近い病室に運び込まれた時、
ここはどこ?あなたはだあれ?
と、柔らかな声で歌うように語りかけたそうで、これが古賀さと子さんの最後の言葉となったといいます。
(当時、田原節子さんは、多忙を極めていたことから、あまり、古賀さと子さんのお見舞いに行くことができず、この話を聞いて「もっと沢山話をしていればよかった」と後悔したそうです)
1950年、7歳の時に、「仔豚のラッパ」で童謡歌手としてデビューすると、その後、「パン売りのロバさん」「南十字星の歌」などのヒットを飛ばすほか、容姿の端麗さと均整の取れた体型で「八頭身美人」と呼ばれ、少女たちの間で絶大な …