1964年、「東京12チャンネル」(現在のテレビ東京)に開局とともに入社し、ドキュメンタリー構成者として活動をスタートさせると、以降、50年以上、ジャーナリスト、評論家として活動している、田原総一朗(たはら そういちろう)さん。今回は、そんな田原さんのルーツである先祖や両親をご紹介します。

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年齢は?出身は?身長は?本名は?

田原さんは、1934年4月15日生まれ、
滋賀県彦根市元岡町の出身、

身長166センチ、

血液型はB型、

学歴は、
彦根市立城東国民学校(現・彦根市立城東小学校)
⇒彦根市立佐和山国民学校(現・彦根市立佐和山小学校)(学区整理のため転校)
⇒彦根市立東中学校
⇒滋賀県立彦根東高等学校
⇒早稲田大学第二文学部中退
⇒早稲田大学第一文学部史学科再入学・卒業

趣味は、電話、旅行、

ちなみに、「田原総一朗」は本名で、一家の長男ということで、「総一朗」と名付けられたそうです。

父方の先祖は「鉄くず屋」⇒「生糸商」

田原さんの父方の先祖は、代々「鉄惣(てっそう)」という称号の鉄くず屋を営んでいたそうですが、

(彦根藩の武士たちの、鎧、兜、刀を買い取って外国に売る商売をしていたそうです)

祖母・田原志げさんのお兄さん・田原捨吉さんの代で、鉄くず屋は廃業して、神奈川県横浜市で生糸商を営み、ドイツの生糸商の日本での番頭役をするようになったそうです。

父方の祖父・孫助は母方の田原家の婿養子となっていた

その後、志げさんが、孫助さん(田原さんの祖父)と結婚し、孫助さんが婿養子となると、近所の百姓たちが蚕(かいこ)を飼って作った生糸を集め、横浜の捨吉さんが営む商店まで運ぶ仕事をしたそうです。

そして、孫助さんと志げさんの間には、三男三女、計6人の子供が誕生するのですが、1902年に誕生した末っ子が田原さんのお父さん・英次郎さんなのだそうです。

父親は器用で絵を描いたり楽器を弾いたりブロマイドを手作りしたりしていた

ちなみに、田原さんのお父さん・英次郎さんは、とても器用な人だったそうで、絵を描いたり、バイオリンや大正琴を弾くなど楽器を演奏することもできたほか、

社会人の野球チームを作り、プロ野球選手のようにユニフォーム姿で撮影した写真をブロマイドにしたりしていたそうです。

(そのブロマイドにアルファベットでサインするなど、田原さんいわく、お父さんは「見栄っ張りで、脳天気」なところがあったそうです)

そんなお父さんは、子煩悩(ぼんのう)で、人間的にはとても良い人だったそうですが、おっちょこちょいのところがあったそうで、田原さんの小学校の入学式のこと、入学式で着る服と帽子を買って来てくれたそうですが、それは、慶応幼稚舎(小学校)の制服だったそうで、

田舎では、誰も知らない学校の制服だったため、田原さんは、恥ずかしくて着ていくのが嫌で、このことが原因で、お父さんと大ゲンカをし、最後まで「嫌だ」と言い張って、着て行かなかったのだそうです。

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母親は教育熱心だった

一方、田原さんのお母さん・登志江さんは、実家が製鋼工場を営んでいたそうですが、登志江さんのお父さん(田原さんのおじいさん)は、製鋼工場を始める前は、小学校の教師をしていたそうで、その影響か、登志江さんは、小学校卒業後は、クラスの女子でたった一人、女学校に進学するほど、勉強熱心だったそうです。

また、母方の親戚には教師が多く、学歴も高かったそうで、登志江さんの従兄弟には、朝日新聞の論説委員や大阪本社編集局長を経て、専務取締役を務めたジャーナリスト・秦正流(はた しょうりゅう)さんや、JTBの副社長を務めた、秦正宣(はた しょうせん)さんなどがいるそうです。

そんなお母さんはやはり、子供たちへの教育も熱心だったそうで、田原さんは、勉強はいつもお母さんにみてもらっていたそうですが、

(お父さんには一回もみてもらったことがないそうです)

田原さんが中学生になり、お母さんが数学の問題を解けなくなっても、田原さんが勉強している間は、夜も、ずっと横にいて、起きていてくれたそうです。

(田原さんは、幼少期、幼稚園に通っていたそうですが、幼稚園に行っていたことは、当時、珍しく、それは、お母さんの影響が大きかったかもしれないとのこと)

「田原総一朗は祖母から生き方について様々なことを教わっていた!」に続く

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