お父さんは起用で子煩悩、お母さんは教育熱心だったという、田原総一朗(たはら そういちろう)さんですが、父方の祖母・田原志げさんからは、生きていくうえで大切な様々なことを教わったそうです。
「田原総一朗の父親は?母親は?先祖は「鉄くず屋」⇒「生糸商」!」からの続き
祖母・田原志げは気が強く気位が高かった
田原さんの父方の祖母・田原志げさんは、1874年(明治7年)生まれで、矍鑠(かくしゃく)とした、気の強く気位の高い女性だったそうですが、
田原家は、もともと、代々、鉄くず屋を営んでおり、志げさんのお父さんの代でも、鎧や刀を売って稼いでいたことから、とても金回りが良かったようで、
志げさんは、よく、
町へ行く時は、金庫から手づかみで金を取り出して着物の袂に入れ、人力車に乗って買い物に行った
と、豪語していたほか、
娘時代は相当な美人だったと、自分で思っていた節もあったそうで、田原さんは、そんなおばあちゃんを「嫌だな」と思ったことが、たびたびあったそうです。
祖母・田原志げから教わった「運・鈍・根」とは
ただ、田原さんは、そんなおばあちゃんから、生きていくうえで大切な、様々なことを教えてもらったそうで、特によく話してくれたのが、「運・鈍・根」の話しだったそうで、
運がいいかどうかは、人生にとって大切なことで、人間は運がいい方がいいに決まっている。運はあらかじめ決まっているものではなく、自分の力で切り開いていくものだ。
運を味方につけるためには、まず鈍になることだ。バカになって、小賢しいことはするな。 要領よく生きたりするな。そうやって鈍になって、あきらめずに根気強くやっていけば、運は開けてくるものだ
と、教えられたのだそうです。
祖母・田原志げから教わった「三方善(さんぽうよし)」とは
そして、おばあちゃんには、「三方善(さんぽうよし)」という生き方についても教えてもらったそうで、
(ただ、子供の頃は、この「三方善」という意味がさっぱり分からなかったそうで、大人になって、ようやく分かるようになったそうです)
まず、「三方善」の第一は、「お客さんへのサービス」で、
商売人はまず、お客さんによくしなければならない。そうすれば、お客さんから喜ばれて信用される
という話。
第二は、
世間つまり社会への貢献だ。そうすれば、世間から信用される。
という話。
この2つをすれば、自分にとっても善で、商売も繁盛して儲かるというのが「三方善」なのだそうです。
祖母・田原志げからは役人にはなるなと言われていた
そんなおばあちゃんは、
人のために尽くせ、人のためによくせよ。そうすれば、自分もうまくいく
というのが口癖だったそうですが、
田原さんは、その後、ずっと、この「三方善」のことを忘れていたそうですが、50歳を過ぎたあたりから、世の中でも、同じような意味のことが注目されるようになってきて、「ああ、そう言えば祖母が言っていたなあ」と、思い出すようになったそうです。
ちなみに、おばあちゃんからは、
今は薩長(明治維新を牽引した薩摩藩や長州藩出身者のこと)の時代だから、官僚や軍人になっても偉くなれない。だから、おまえは役人にはなるな
とも、言われたことがあったそうで、
(明治政府では、徳川幕府の大老だった井伊直弼の地元である彦根出身で成功した人はほとんどいなかったそうです)
このことが影響して、自然と反骨(反体制)の精神を持つようになったのかもしれないと、田原さんは語っています。
「田原総一朗の生い立ちは?父親は女性にモテるも家はかかあ天下だった!」に続く