1960年、劇団員が演劇活動だけで生活していけるようにと、「劇団四季」「有限会社劇団四季」と法人化された浅利慶太(あさり けいた)さんは、スポンサー探しに奔走し、友人である石原慎太郎さんの紹介で東急グループの社長、五島昇さんと知り合われます。そして、五島さんの口利きで「日生劇場」の経営に携わることになると、以降、一介の劇団だった「劇団四季」を企業と呼べるほどに成長させたのでした。


「若い頃は?日下武史らと劇団四季を結成しフランス文学作品!」からの続き

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「有限会社劇団四季」を設立

地道に観客を獲得していくも、
演劇活動だけでは食べていけなかったことから、
分裂の危機にひんしていた「劇団四季」ですが、

どうしても芝居を続けたい浅利さんは、考え抜いた末、
1960年に「劇団四季」「有限会社劇団四季」と法人化。

つまり、演劇活動をするために、
アルバイトなど他で働くのではなく、

演劇活動で給料を取れるように、
と考えられたのでした。

それで、なんとか協力者を得ようと、
あちこち奔走した浅利さんは、

ついに、友人で作家の石原慎太郎さんに、
東急グループの五島昇社長を紹介してもらいます。

五島昇さん

そして、浅利さんは、五島社長に、
渋谷の映画館を改装して劇場にしたいと提案されるのですが、
残念ながらこの話には乗ってもらえず。

ただ、五島さんの口利きで、日比谷に新しくできる、
戦後初めての本格的な劇場「日生劇場」の開設に、
携わることになったのでした。

後に、浅利さんは、この時のことを振り返り、

28歳から日生劇場の経営をやらせていただきました。
日生劇場というとお役がみんな、金融機関の方です。
(日本生命の社長がスポンサーだったことから)

数字でしかものが通じない、
言葉が通じないという世界で育てられました。
そのなかで芸術的な仕事をしてきました。

だから体の半分以上は、
ビジネスの人間であるという意識があります。

と、語っておられます。

「日生劇場」の経営に参加

こうして、浅利さんは、1961年、
「日生劇場」の営業担当取締役に就任すると、

1963年には、
「日生劇場」がいよいよオープン。

ただ、当初上演していた、
新劇(ヨーロッパ流の近代的な演劇を目指す日本の演劇)は、
あまり人気がなく、客入りが芳しくなかったことから、

翌年の1964年には、これまで「劇団四季」が得意としていた、
フランス演劇ではなく、子どものためのミュージカル、
「ニッセイ名作劇場」を上演するようになります。

浅利さんはその理由を、

とにかく、食べていきたかったんですね、芝居で。

それには独りよがりは駄目なんですよ。
払ってくれる人、食べさせてくれる人を納得させないと。

お帰りになる時に、お客様が観てよかった、
と言って頂けるような舞台を作るということでしょう。

と、明かされています。

(当時(1960年代)の演劇界は、「わからないことが高尚」
 (左翼思想、観念的な思想など)という、自己満足で清貧を、
 美徳とする新劇団が中心だったようです。)

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ブロードウェイミュージカル「アプローズ」がヒット

そして、その後も、浅利さんは、
日本生命という一流企業から経営ノウハウを学び、

アマチュア色の強かった「劇団四季」を、「日生劇場」という、
一流の劇場で上演することのできる劇団へ成長させると、

1967年には、「有限会社劇団四季」から、
「四季株式会社」へと組織変更。

同時に、この頃には、浅利さんは、

演劇は先ず一つの事業、
繁昌する一つの商業的な企業であらねばならぬ。

しかるのちに初めて、演劇は、
芸術の領域に自己の地位を確保することを許容される。

と、新劇団の考え方を否定して、
商業演劇指向へと変化させ、

1971年には、「劇団四季」と越路吹雪さんを組み合わせた新型公演、
「越路吹雪ドラマチックリサイタル-愛の讃歌-」をプロデュース。

 (以降、1980年に越路吹雪さんが亡くなるまで、
  「越路吹雪リサイタル公演」を日生劇場において演出されています。)

そして、1972年には、「劇団四季」初となる、
越路吹雪さんと雪村いづみさん主演の、
ブロードウェイミュージカル「アプローズ」をヒットさせ、
「劇団四季」の新たな幕を開かれたのでした。

「キャッツが大ヒット!社長退任で劇団四季の稽古場を出禁?」に続く

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