中学時代は、小説を書き始めるも、他人に読んでもらうことなく、あくまで自己満足だったという、田原総一朗(たはら そういちろう)さんですが、高校に入ると、小説を書くサークル「文学会」を立ち上げ、部員のみんなで小説を書き、お互い読み合いをしたそうです。

「田原総一朗は中学時代から小説を書き始めていた!」からの続き

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高校時代はサークル「文学会」を立ち上げていた

中学までは、自分で小説を書くだけで満足していたという田原さんですが、1950年4月、彦根東高校に進学すると、小説を書く生徒の集まり「文学会」というサークルを結成して、校舎1階の階段下にある空き部屋を部室にし、自分の作品を仲間たちに読んでもらったり、逆に、田原さんもみんなの作品を読むようになったそうで、みんなで集まっては、文学議論を戦わせたりしたそうです。

(同時に、「草笛」という同人雑誌も作るほか、高校の新聞に短編小説も書いたそうです)

ちなみに、「文学会」のメンバーには女子生徒もおり、男女関係なく自由に話し合えるのが楽しかったそうで、「生きるとは何だ」という人生論を中心に、「恋愛とは何だ」「愛し合うって何だろう」など、女の子の手を握ったこともないのに、形而上学的なテーマについて議論していたのだそうです(笑)

(意外にも、田原さんは、他人の作品を批判することは決してしなかったそうで、今でも、他人を批判することは苦手なうえ、好きではないそうで、テレビ討論の司会役でも、政治家や権力者には敢えて嚙みつくも、作家やジャーナリストなどの同業者の批判は全くしないのだそうです)

高校2年生の時、後輩の絵を見て絵を描くことに挫折

そんな田原さんは、幼少期からずっと大好きで、中学時代には、滋賀県や近畿の学生展で賞をもらうほどの腕前だった絵も、美術部に入部して続けていたそうですが、

高校2年生の時、1年生に黒田くんという後輩が入って来ると、「あっ、これが絵というものか」と感心させられるほど、絵が抜群に上手だったそうで、

黒田くんの作品に比べると、自分が描いていた絵は「絵もどき」の代物でしかないと感じ、それまでは、「将来、画家としてやっていけるかもしれない」という淡い期待を抱きつつ、本気で絵に取り組んでいたそうですが、黒田くんの絵を見て、完全に挫折し、余計に「自分には小説しかない」と思うようになったそうです。

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父親から新聞社に入って絵を描くよう言われていた

とはいえ、田原さんの描いた絵は、相変わらず、コンクールでは入賞していたそうで、中日新聞から絵の依頼が来て、2回ほど紙面に掲載されたこともあったことから、

(コンクールで入賞したのを新聞の担当者が見初め、依頼してきたそうです)

これまでは、もっぱら「官吏」になるよう言っていたお父さんも、新聞に掲載された絵とエッセイを見て、田原さんの才能を認めたのか、

新聞社に入って絵を描け

と、言うようになったそうです。

(お父さんの言う「官吏」とは、国家公務員のことではなく、滋賀県庁職員のことで、お父さんは、県庁職員が世の中で一番偉いと、真面目に思っている節があり、息子の田原さんが県庁職員になることがお父さんの一番の夢だったそうです。ただ、田原さんは、お父さんには悪いとは思いつつ、当時から公務員や政治家になる気はまったくなかったそうです)

「田原総一朗が高校の時は家計を支えるためアルバイトをしていた!」に続く

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