高校に入ると、小説を書くサークル「文学会」を立ち上げ、小説を書いてはみんなで読み合いをするほか、部員たちと文学議論を戦わせるなどしていたという、田原総一朗(たはら そういちろう)さんですが、家庭は、お父さんが仕事で失敗して借金を作るなど、経済的に困窮していたといいます。

「田原総一朗は高校時代にサークル「文学会」を立ち上げていた!」からの続き

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家計が傾き仏壇まで売り払っていた

この頃、闇ブローカーの仕事をしていたお父さんが、騙されたり、借金を作ったりと失敗ばかりしていたことから、家計が傾き、生活がとても苦しくなっていたそうで、家財道具を売ってお金を捻出していたそうですが、最後には売る物が何もなくなり、床の間に置いてあった仏壇まで売り払ったそうで、

(昔の仏壇は大きく、約1.8メートルくらいあったそうです)

仏壇屋と一緒に仏壇を担いだ弟の滋康さんは、後に、

この時に仏壇を肩に背負った重みが、自分の原点だ

と、語っていたそうです。

(「あんな悔しい思いは二度としないと心に刻んで生きてきた」という意味)

母親が帯の刺繍などで家計を支え家の売却を免れていた

さておき、仏壇を売った次は、家を売るしかない状況にまで追い詰められたそうですが、お母さんが帯の刺繍をして家計を助けるほか、味噌や醤油を多めに買って来ては小売りをしてその利益で稼いで何とかしのぎ、結局、家は売らずに済んだそうです。

(借金取りが家に来ると、お父さんは奥の間に隠れ、代わりに、お母さんがすべて対応したそうです)

父親は大阪の問屋で下働きを始めていた

一方、当のお父さんはというと、大阪にある、在日中国人が経営する問屋で下働きを始めたそうですが、都会も勤めも大嫌いだったお父さんは、大阪に出かける時には、「淀川を渡ると、もう人間じゃなくなる」と愚痴をこぼし、逆に、大阪から彦根に帰ってくる時には、「淀川を渡ると、人間に返る」と言っていたそうです。

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家計を助けるためアルバイトをしていた

また、田原さんも、家計を助けるため、高校1年生からアルバイトを始めたそうで、一つは、協同組合の仕事で、英語で書類を書いて、月1回大津にある占領軍の拠点まで届けにいくというものだったそうですが、

もう一つは、家庭教師で、1回1時間ほどの授業を週3回、小学6年生に教えると、その家では、まんじゅうなどのお菓子を出してくれたそうで、それを食べずに家に持ち帰ると、弟や妹がとても喜んだため、田原さんは、いつも、食べたいのを我慢して家に持ち帰っていたそうですが、

そのうち、その家の人が、田原さんが、弟や妹のためにお菓子を我慢して持ち帰っていることに気づき、田原さんが食べる分も別に用意してくれるようになったそうです。

「田原総一朗は作家に憧れ早稲田大進学を希望も母親の反対に遭っていた!」に続く

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