高校在学中、劇作家の加藤道夫さんに出会ったことで演劇を志すようになり、1953年、慶応大学と東京大学の演劇仲間10名で「劇団四季」を結成された、浅利慶太(あさり けいた)さん。当初はフランス文学作品を中心にストレートプレイ(歌唱を含まない演劇)を上演し、以降、地道に観客を獲得するも、劇団員は演劇活動だけでは食べていけず、「劇団四季」は分裂の危機に。そんな中、浅利さんはあることに取り組み始めます。
プロフィール!
浅利さんは、
1933年3月16日生まれ、
東京都のご出身、
学歴は、
慶應義塾大学文学部仏文学専攻中退、
お父さんは、演劇プロデューサー、俳優の、
浅利鶴雄さん、
大叔父には、歌舞伎役者の、
二代目市川左團次さんがいらっしゃいます。
加藤道夫と出会い、演劇を志す
浅利さんは、慶應義塾高等学校在学中、
英語教師をされていた劇作家の加藤道夫さんと出会うと、
政治主張に重きを置いた啓蒙的な舞台が主流だった、
当時の演劇界において、
「演劇は詩と幻想の芸術」
と説く、加藤さんの教えに感化され、
演劇を志すようになります。
その後、浅利さんは、慶應義塾大学に進学されると、
大学2年生の時、演出家に抜擢され、
半年間の猛稽古のすえ、ウィリアム・サローヤンの
「わが心高原に」を上演すると、
観客からは、割れんばかりの拍手が。
すると、それを見守っていた加藤さんが、
浅利さんをはじめとする、学生たちに向かって、
君達は、ひとつの扉を開けたのだ。
くれぐれ々も忘れないように、その扉が、
その扉だけが真の演劇の世界へ諸君を導き入れる唯一つの扉なのだ。現在の舞台にのさばっている旧い新劇や、
ふざけた新劇にはくれぐれも影響されないように。
やがて君達の手で新しい演劇芸術が開花する未来を僕は夢みている。
とおっしゃったそうで、
この言葉で、浅利さんは、
演劇を一生の仕事にしようと決意されたのでした。
「劇団四季」を結成するも悲しみの旗揚げ公演
こうして、浅利さんは、
慶應義塾大学在学中の1953年7月14日、
「日本演劇界に革命を起こす」
という意味を込めて、
(7月14日はフランス革命の発端となったバスチーユ監獄が襲撃された日で、
現在、フランスでは、「フランス共和国」の成立を祝う日とされています)
日下武史さん、藤野節子さん、水島弘さん、吉井澄雄さんら、
慶応大学と東京大学の学生10名とともに「劇団四季」を結成されると、
(名付け親は、加藤さんの盟友でもある演出家の芥川比呂志さんで、
「四季とりどりの芝居を提供する劇団に育ってほしい」との思いから)
旗揚げ公演には、加藤さんが信奉していた、
まさに「詩と幻想」の舞台である、
ジャン・アヌイ作「アルデールまたは聖女」が選ばれ、
浅利さん達は稽古に励まれるのですが・・・
左端が浅利さん。
そんな中、なんと、加藤さんが自殺。
さすがに、旗揚げ公演を目前にしてのこの悲報には、
浅利さんたちは悲嘆にくれたのですが、
先生の清らかな魂は、当時の演劇界には、
とても受け入れてもらえなかったのだ。先生は俗物どもを”ウィ”(はい)と受容されながら、
その実、傷つき倒れられてしまったのだ。だから、これから僕たちはすべてに “ノン” (いいえ)と、
拒否しながら生きていこう。それがたった一つの道なのだ。
と、語りあったそうで、亡き恩師の志を継ぎ、
あらためて、演劇に一生を捧げることを誓いあったのでした。
ジャン・アヌイやジャン・ジロドゥなどフランス文学作品を上演
そして、翌年の1954年1月22日、
浅利さんら「劇団四季」は、恩師の急逝という悲しみのなか、
旗揚げ公演「アルデールまたは聖女」を上演すると、
(ちなみに、ともに日本共産党員として活動されていた、
浅利さんの妹で女優だった陽子さんも1954年、
思想上の苦悩から23歳の若さで自殺しています。)
以降、加藤さんの志を継ぎ、
ジャン・アヌイやジャン・ジロドゥなどを中心に、
フランス文学作品を次々と上演。
1955年には、「野生の女」(ジャン・アヌイ)が、
大ヒットとなり、初めて新聞批評に取り上げられています。
また、1957年頃からは、文化が東京に集中するのを避けるため、
首都圏のみならず全国各地をめぐって、地道な動員、講演活動を続けられ、
「劇団四季」は着実に観客を獲得していったのでした。
当時の浅利さん。(左)
分裂の危機
しかし、それとは裏腹に、
演劇活動だけでは食べていくことができず、
一時期は、一部の団員のテレビ出演料や、
先に社会人になった団員の給料を、
みんなで分け合って生活していたこともあったそうで、
やがて、経済的な問題が原因で、
「劇団四季」は分裂の危機にひんしてしまいます。
ただ、それでも、
どうしても演劇活動を続けたい浅利さんは、
どうやったら芝居で食べていく事ができるのか、
と考え抜いた末、あることに取り組み始めます。