1955年、作曲家・古賀政男さんの自宅を初めて訪れた際、古賀さんの弟子で養子だった丈晴さんと、運命的な出会いを果たすも、自分の子供に家を継がせたいと考えていた双方の親との間で話し合いがつかず、なかなか、結婚話が進まなかったという、山本富士子(やまもと ふじこ)さんですが、その後、山本さんのお父さんが他界したことで、結婚の話が進んだそうです。

「山本富士子の夫はギタリストで作曲家の山本丈晴!馴れ初めは?」からの続き

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父親が他界したことで山本丈晴と交際をスタート

実は、当時、丈晴さんは結核にかかっていたそうで、山本さんの両親(特に父親)は、このことを一番心配し、結婚に反対していたそうで、そんな両親の圧力で、山本さんは丈晴さんに会えなくなってしまい、さらには、丈晴さんも、山本さんのことが原因で、古賀家を出て、山梨にある実家に戻ってしまったそうです。

ただ、やがて、山本さんのお父さんが他界したことから、山本さんは、丈晴さんの実家を訪ねて行き、無事、丈晴さんとの再会を果たしたそうで、

(丈晴さんから「もし何かあった場合、ここに連絡をして欲しい」と実家の住所を渡されていたそうです)

もともと、丈晴さんを信頼していたお母さんが交際を認めてくれ、ようやく、2人は交際をすることができたのだそうです。

山本丈晴から手術の前日にプロポーズされていた

そして、丈晴さんは、山本さんと結婚するためには、どうしても健康を取り戻さなければと、手術をする決意をしたそうですが、それは、肋骨4本を切除し、背中を30数針縫うという、生死をかけた大変な手術だったそうで、

山本さんは、慶應義塾大学病院での手術の日の前日、丈晴さんから、

もし手術が成功して健康を取り戻せたら結婚をして欲しい。

と、プロポーズされたそうです。

すると、無事、手術は成功し、出会って7年目の1962年4月25日、二人は赤坂のホテルニュージャパンで結婚式を挙げたのだそうです。

山本丈晴の入院中は見舞いに行くことができなかった

ちなみに、丈晴さんの手術日は、山本さんの初めての他社(松竹)映画出演、しかも、それは、小津安二郎監督作品への出演と、女優として、最も大切な時期と重なっていたそうで、

「大映」との契約で撮影期間は35日と制限され、大船の旅館に缶詰状態で撮影に臨んでいた山本さんは、丈晴さんのお見舞いに行くことができず、辛い思いを抱えていたそうです。

そのため、丈晴さんのお兄さんから、手術が無事に終わったことを、夜、旅館への電話で聞かされた時には、受話器を握りしめたまま、涙が止まらなかったそうで、

山本さんは、後に、

このことは、あくまでプライベートなこととして、当時、一切公表もしませんでしたし、誰にも話しませんでした。丈晴さんの家族と私の家族のみが知っていました。

女優として最も大切な時期。しかも心とは裏腹に明るい役を演じなければならない辛さを今、思ってもよく乗り越えられたと思います。

ただ、そんな辛さがかえってバネとなって何としてもここを乗り越えなければという強い思いが私を助けてくれたのだと思います。

その後、(丈晴さんは)長い入院生活を終えて、手術をして下さった先生から3年経って再発しなければあとは、絶対大丈夫だから、という言葉をいただいて、しっかり3年待って昭和37年、出逢ってから7年目にやっと結婚することが出来ました。

と、語っています。

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子供は息子が1人

そんな二人は、穏やかに結婚生活を送ったそうで、1968年には男の子(茂晴さん)が1人誕生しているのですが、情報が全くないことから、芸能関係者ではないようです。

そして、丈晴さんは、2011年9月7日午後10時37分、3年半の闘病生活の末、肺炎により86歳で他界したそうで、以降、山本さんは、丈晴さんとの思い出と寄り添いながら毎日を過ごしているそうです。

さて、いかがでしたでしょうか。

山本富士子さんの、

について、まとめてみました。

90歳を回る高齢でありながら、現在も活動中という、驚くべきバイタリティを持つ山本さんですが、映画界が絶大な権力を持つ時代において、フリー宣言し、たった一人で立ち向かった不屈の精神を持つ山本さんですから、それも納得。これからも、変わらず、元気な姿を見せ続けてほしいものです。

「山本富士子の生い立ちは?高校時代から美人で有名だった!」


丈晴さんと山本さん。

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