「大映」との10年契約更新の事前交渉で、果たされていなかった「年間2本の他社出演を認める」という約束の実行を強く迫るも、機嫌を損ねた永田雅一社長から、今度は「他社出演を一切認めない」旨の強い条件で迫られ、「大映」と決裂し、フリー宣言した、山本富士子(やまもと ふじこ)さんですが、その後、映画界のみならず、舞台、テレビ業界からも完全に干されてしまったといいます。

「山本富士子が若い頃は「大映」と決裂し「フリー宣言」していた!」からの続き

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記者会見を開き「円満」退社を強調するも・・・

「大映」と決裂した山本さんは、1963年2月28日、帝国ホテルで記者会見を行うと、

そんなことで映画に出られなくなっても仕方ありません。自分の立場は自分で守ります。その方が生きがいがあるし、人間的であると思います。

と、語りつつも、

円満に退社できてうれしい。永田社長は、困ったことがあったらいつでも戻ってこいと言われたそうです。(代理人を立てての交渉だったことから)

と、語っており、

(永田社長は、「他社出演を妨害するなんてオレがそんな小さな根性の持ち主か」と発言したとも)

一見、円満な独立となったかと思われたのですが・・・

(山本さんは、「(永田社長に)詫びを入れろ」という周囲の言葉に耳を貸さなかったそうです)

「大映」永田社長に映画界から完全に干される

永田社長の息子で、専務の永田秀雅氏は

他社が山本君を使うのは自由だが、それは各社の良識次第

などと発言しており、

実際、その後は、山本さんに対する出演依頼はピタッと止まってしまったほか、以前に出演契約を交わしていた映画会社までもが、「山本に合う役がない」「山本のための企画がない」と依頼を断ってきたそうで、山本さんは、完全に映画界から干されてしまったのでした。

(実際には、永田社長が、山本さんを締め出すよう圧力をかけていたのだそうです)

ちなみに、山本さんは、後に、この時のことについて、

その後、私がフリーになりました時に五社協定の黒い霧といわれ、当時、社会的にも問題になったことに巻き込まれ、映画界を去ることになりました。

と、語っています。

「大映」永田社長の圧力は舞台・テレビドラマにも及んでいた

そして、この影響は舞台やテレビにまで及んだそうで、6月に予定されていた歌舞伎座での市川團十郎さんとの共演も中止に追い込まれるほか、菊田一夫監督より招かれて出演予定だった東宝劇場公演や、テレビドラマ「東芝日曜劇場 かげろふの日記遺文」も流れてしまったそうで、

そんな中、「東宝」の副社長・森岩雄氏が、独立プロなら「五社協定」の範囲外だろうと、新藤兼人監督作品「悪党」(1965年)のヒロインに山本さんを起用しようとしたそうですが、それも、永田社長が独立プロの映画にも圧力をかけていたため、お流れとなってしまったのだそうです。

(このことは、「人権蹂躙(じゅうりん)」と非難の声が上がったほか、国会でも取り上げられたそうですが、当の映画会社の社長たちは、「五社協定?そんなもんは、ありゃせんよ」とうそぶいたそうです)

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直談判ではなくドライな代理人交渉が「大映」永田社長の気に障っていた?

ちなみに、山本さんが「大映」と決裂した1963年の10年前の1952年には、当時、「大映」の看板女優だった乙羽信子さんが、新藤兼人監督の独立プロ作品「原爆の子」への出演を、永田雅一社長に直談判し、乙羽さんの熱意に根負けした永田社長が目の前で契約書を破いて、音羽さんの出演を許したということがあったそうですが、

(このことをきっかけに、乙羽さんは「大映」を退社したそうです)

山本さんは、直談判ではなく、代理人を立て、あくまでビジネスライクな交渉をしていたそうで、そのようなドライな割り切り方が、余計に、「大映」永田社長には気に入らなかったのかもしれません。

(山本さんが主に活動していた大映京都撮影所でも、山本さんに同情する空気はなく、冷たい反応だったそうです)

「山本富士子はTVドラマ「明治の女」で女優復帰していた!」に続く

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