もともと「3年経って一人前になったら自由契約」だった約束が、「五社協定」が出来たことで、うやむやになって、「年間2本の他社出演を認める」に変えられるも、この約束さえ果たされず、毎年1本しか出演させてもらえず、不満を抱えていたという、山本富士子(やまもと ふじこ)さんですが、さらには、「他社出演を一切認めない」という条件に変更され、ついに、「大映」と決裂し、フリー宣言したといいます。

「山本富士子は「五社協定」のなか他社映画に毎年1本出演していた!」からの続き

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当時の映画界には「五社協定」という制約があった

テレビがまだ普及していなかった1950年代の娯楽はもっぱら映画で、年間500本以上もの映画が製作されており(観客動員は延べ10億人に及んだそうです)、そのどれもが、人気俳優を中心に企画・製作が進められる「スターシステム」という手法によって作られていたそうですが、

(これにより、スター俳優は自身の意向とは関係なく出演させられており、脚本を読んで自分で出演するかしないかを決めることはできず、映画会社の言いなり状態だったそうです)

この「スターシステム」は、俳優への依存度が高いため、引き抜きや移籍は、映画会社に大きなダメージを与えたことから、1953年には、映画会社5社(松竹、東宝、新東宝、大映、東映)が、監督・俳優の引き抜きを禁止し、お互い、監督・俳優の貸し借りもやめようという協定を結びます。(「五社長申し合わせ」または「五社協定」)

(新しく映画製作を始めた日活が監督や俳優を引き抜こうとしたことから、この「五社協定」ができたそうで、後に、その日活も加わり、新東宝は倒産したものの、映画産業が衰退する1970年前後まで続きます)

「年間2本の他社出演を認める」契約さえ果たされず不満を抱えていた

一方、山本さんは、「五社協定」が出来る前から、「大映」と「1本あたりのギャラは、1年目が10万円、2年目が20万円、3年目が30万円と、スライド制で額を上げてもらい、3年経って一人前になったら自由契約」という約束をしていたにもかかわらず、

1953年に、「五社協定」ができると、「3年経って一人前になったら自由契約」の話がうやむやになり、「年間2本の他社出演を認める」という契約に変わってしまい、それでも、その条件をのんでいたそうですが、

この「年間2本の他社出演を認める」という約束さえ果たされず、年間1本のみの出演にとどまっていたことから、しばしば、「大映」の永田雅一社長に、約束を実行することを強く迫っていたそうです。

(スター女優として「大映」で活躍していた山本さんは、同じく看板女優である京マチ子さんや若尾文子さんよりは優遇されていたそうです)

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「大映」から「他社出演を一切認めない」条件を強く迫られついにフリー宣言

そして、1963年1月末の「大映」との10年契約の満了を控えた事前の交渉でも、山本さんは、「年間2本の他社出演」という主張は譲らなかったそうですが、

(この時、山本さんが、「大映」との10年契約満了をきっかけに独立を決意し、永田社長にその旨伝えると、永田社長は、「年間主演2本、共演1本、他社出演は自由」と、山本さんを慰留したという話も)

その後、永田社長が機嫌を損ね、「年間2本の他社出演」という約束さえ反故(ほご)にし、他社出演を一切認めない旨の強い条件で迫ってきたそうで、山本さんは反発し、交渉は決裂。

(他社出演をあきらめるか、フリーになるか二者択一を迫ったとも)

山本さんは、

契約条件に他社出演が認められながら、実際にはもめるなど“自由”が拘束されてきた

と、(1月末の契約切れを待って)フリーを宣言したのでした。

(実は、「五社協定」を最初に提唱したのは永田社長だったそうですが、山本さんの「憂愁平野」出演に、他社の社長から、「五社協定」に違反しているとの指摘が入るも、大モメの末、永田社長は山本さんの「憂愁平野」出演を実現させていたそうで、この騒動が一段落した後には、あらためて他社の社長たちからクギを刺され、永田社長は面目を潰された形になっていたそうです)

「山本富士子は昔「大映」永田社長により芸能界から干されていた!」に続く

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