1958年、小津安二郎監督作品「彼岸花」に出演したことで、女優として大きく飛躍した、山本富士子(やまもと ふじこ)さんは、その後も、美貌と演技力を兼ね備えた「大映」の看板女優として活躍するのですが、1963年にフリー宣言をすると、映画界から完全に締め出されてしまいます。今回は、山本さんが映画界から締め出されるまでの経緯をご紹介します。

「山本富士子が語る小津安二郎監督への想いとは?」からの続き

Sponsored Link

大映の看板女優として飛ぶ鳥を落とす勢いも・・・

美貌だけではなく、「夜の河」(1956)で「NHK主演女優賞」、「彼岸花」(1958)で「第9回ブルーリボン賞」、「墨東綺壇」(1960)で「第31回キネマ旬報主演女優賞」を受賞と、演技面でも高い評価を得て、大映の看板女優として活躍していた山本さんですが、

私は昭和28年に、芸能界には全く関係のない普通の家庭の娘から映画界に入り、大映の専属となりました。デビュー作品『花の講道館』では、いきなり大スター長谷川一夫さんの相手役となり、西も東も分からないまま、ただもう無我夢中でスタートを切りました。

そして、デビューから毎年、一年に10本以上の作品に出演し、日々追われ続け、与えられた一本一本の作品によって様々なことを覚え、学んでいかなければならないという本当に厳しい状態でした。

それは、映画界に在籍した10年間、毎年、10本以上の作品に出演し、特に昭和33年の『彼岸花』を撮った年は、年間15本の作品に出演しています。

それこそ寝る暇もない超過酷なスケジュールの中で特別に何かをやるということは、全く無理な、不可能な状態でした。

と、ひたすら仕事をこなすだけで何も出来ない状態だったといいます。

「3年経って一人前になったら自由契約」が「年間2本の他社出演を認める」という条件に変えられる

実は、山本さんは、映画界に入り、「大映」と契約する際、

1本あたりのギャラは、1年目が10万円、2年目が20万円、3年目が30万円と、スライド制で額を上げてもらい、3年経って一人前になったら自由契約

という契約を結んでいたそうですが、

1953年に、「五社協定」ができると、「3年経って一人前になったら自由契約」の話はうやむやになり、「年間2本の他社出演を認める」という契約に変わってしまったそうです。

(※「五社協定」とは、日本の大手映画会社5社(松竹、東宝、大映、新東宝、東映)が1953年9月10日に調印した、専属監督・俳優らに関する協定。後に日活が加わり、新東宝が倒産するまでの3年間は六社協定。1971年をもって五社協定は自然消滅。)

Sponsored Link

他社の社長から「五社協定」に違反していると指摘される

それでも、山本さんは、この「年間2本の他社出演を認める」という条件を受け入れ、「大映」の専属契約を続けていたそうですが、なかなかこの約束さえ実行されなかったそうで、

演技の幅を広げるためにと、他社映画の出演を熱望し続け、ようやく、1958年に、「松竹」の小津安二郎監督作品「彼岸花」に出演することができたそうです。

そして、この「彼岸花」を皮切りに、

1959年「東京映画(東宝系)」の映画「暗夜行路」(豊田四郎監督)
1960年「東京映画(東宝系)」の映画「墨東綺譚」(豊田四郎監督)
1961年「松竹」の映画「猟銃」(五所平之助監督)(山本さん自身の企画による)
1962年「東京映画(東宝系)」の映画「如何なる星の下に」(豊田四郎監督)

など、毎年1本、「大映」以外の他社の作品に出演していたそうですが・・・

1963年、再び、東宝系の豊田四郎監督に呼ばれ、映画「憂愁平野」に出演すると、5社長会議で、他社の社長から「五社協定」に違反していると指摘され、大モメとなってしまったといいます。

「山本富士子が若い頃は「大映」と決裂し「フリー宣言」していた!」に続く

Sponsored Link