誠実なキャラクターとして、数多くのドラマで渋い演技を見せられている、篠田三郎(しのだ さぶろう)さん。今回は、そんな篠田さんの、生い立ちからブレイクされるまでの経緯について、調べてみました。

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年齢は?出身は?身長は?本名は?

篠田さんは、1948年12月5日生まれ、
東京都港区麻布のご出身、

身長178センチ、
体重76キロ、

血液型はO型、

学歴は、
⇒豊島区立道和中学校
⇒日本大学第二高等学校中退

趣味は、
野球観戦、メジャーリーグ観戦、旅行、ゴルフ、乗馬、

特技は、
乗馬、ボクシング、

ちなみに、本名は「大塚晴生(おおつか はるお)」です。

生い立ち

篠田さんは、全員男の3人兄弟の長男として誕生すると、映画への憧れから、1965年、高校生の時、「大映第18期ニューフェース」「東宝」のオーディションを受けると、「大映第18期ニューフェース」に見事合格。

学業も続けたかったそうですが、学校の方針で芸能活動が禁止されていたため、高校を中退して、俳優の道に進みます。

(ただ、実家が小さな工場を営まれていたことから、俳優でうまくいかなくとも、家業を継げばいいかと、安易な考えはあったそうです)

「大映」の養成所に入所

ちなみに、篠田さんは、まず最初に、「大映」の養成所に入り、様々な分野の一流の先生から講義を受けたそうで、

ある日のこと、講師としてやってきたある助監督に、

演技が上手くなるにはどうすればいいですか

と質問したところ、

そんなことより体を鍛えておけ

と、厳しく一喝されたそうですが、

篠田さんは、

今考えれば、当たり前です。演技を上達させる特効薬なんてない、日々努めるしかないんですから。屁理屈をこねるより、若いのだから少しでもしなやかな体を作っておけ、ということだと思います。

その教えもあって、養成所の仲間たちはみんな、体を鍛える意識を強く持っていました。

と、語っておられました。

大部屋俳優で端役の日々

こうして、篠田さんは、半年間の養成期間を経て、「大映東京撮影所」に入社されると、1966年、「雁」で映画デビューを果たされるのですが・・・

その後は、大部屋に配属され、

あの頃は「お前のギャラよりフィルム代の方が高いからな」と脅かされたりしまして、カメラの前に行くのが怖かったですね。

でも、カメラマンの人たちには若い俳優を育てようという意識があり、少しでも画面に映るようにカメラの近くに呼んでくれたんです。

それでも、大部屋にいる俳優にはなかなかいい役が付きません。ちょっといい役はみんな外部の新劇の人たちが持っていっていました。

と、おっしゃっている通り、

1966年「赤い天使」
1967年「砂糖菓子が壊れるとき」
1968年「ガメラ対宇宙怪獣バイラス」
     「ジェットF104脱出せよ」
     「不信のとき」
1969年「女賭博師 花の切札」
     「ダンプ・ヒップ・バンプ くたばれ野郎ども」


「ガメラ対宇宙怪獣バイラス」より。

1970年「女賭博師 壷くらべ」
     「高校生番長」
     「太陽は見た」
     「夜のいそぎんちゃく」
     「十代の妊娠」
     「高校生ブルース」
     「高校生番長 棒立て遊び」
     「高校生番長 深夜放送」
     「高校生番長 ズベ公正統派」


「高校生ブルース」より。堀雄二さんと篠田さん。

と、立て続けに映画に出演するも、ほとんどが通行人などの端役ばかり。

それでも、

もっとお芝居の勉強をしなくちゃいけない

と、めげずに、お芝居に励まれていたところ、

丸井太郎さん、三角八郎さんという中堅クラスの先輩が、市川雷蔵さんバックアップの元に立ち上げた「パンの会」という勉強会に声をかけてもらい、第1回公演「俺たちは天使じゃない」という舞台に出演。

篠田さんの出番は少なかったそうですが、そのような現場で、少しずつお芝居を覚えていったのでした。

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高橋惠子とのW主演映画「高校生心中・純愛」が大ヒット

そして、ついに、1971年、「高校生心中・純愛」の主人公・丘谷由夫役に抜擢されると、相手役の関根恵子(現・高橋惠子)さんとのコンビで映画は大ヒットを記録。


「高校生心中・純愛」より。関根恵子さんと篠田さん。

この大ヒットによって、続く「樹氷哀歌」「成熟」でも、関根さんとのコンビで、主演に起用されるのですが・・・


「成熟」より。篠田さんと関根恵子さん。

この年の年末には、「大映」が倒産してしまったのでした。

ちなみに、篠田さんは、その時のことを、

主演といっても、とにかくあの頃は監督に怒鳴られてばかりいました。「関根恵子はスターだけど、お前はスターではない」みたいなのがあって、それには反発していました。

その頃の大映は倒産する直前だったので、映画製作の資金繰りは厳しい状況だったと思います。地方ロケではタイアップのために宿泊先を転々として、夜は地元のお偉いさんに女優さんがお酌するとか、極端にいうとそんなこともありました。

でも、今も俳優として仕事をさせて頂けているのは、大映が私に手を差し伸べてくれたからこそ。感謝は尽きないですね。

と、語っておられます。

「篠田三郎は昔ウルトラマンタロウも現在は円谷プロと軋轢?」に続く

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