1958年、「日劇ウエスタン・カーニバル」に出演し、平尾昌晃さん、山下敬二郎さんと共に”ロカビリー3人男”として注目を浴びると、同年には、映画「結婚のすべて」で俳優としてもデビューを果たし、以降、ミュージシャンとして、俳優として、幅広く活動している、ミッキー・カーチス(mickey curtis)さん。
そんなミッキー・カーチスさんは、日本人とイギリス人のハーフの両親のもと、東京に誕生したそうですが、太平洋戦争が始まると、一家を受け入れてくれる疎開先が見つからなかったそうで、4歳の時には上海に移住したそうですが、ここでも(現地の国民学校)、”顔が非国民”という理由でイジメられたといいます。
そして、終戦後、7歳の時には日本に帰国して国民学校に通い始めたそうですが、ここでもイジメられたそうで、小学5年生の時、小・中・高校一貫校の和光学園小学校に編入し、ようやく、のびのびと過ごすことができたといいます。
今回は、ミッキー・カーチスさんの、生い立ち(幼少期からロカビリーバンド「クレイジー・ウエスト」結成まで)をご紹介します。
ミッキー・カーチスのプロフィール
ミッキー・カーチスさんは、1938年7月23日生まれ、
東京府東京市赤坂区(現在の東京都港区)の出身、
身長167センチ、
血液型はO型、
学歴は、
国民学校(上海)
⇒国民学校(日本)
⇒和光学園小学校(編入)
⇒私立和光中学校
⇒私立和光高校
⇒成城大学文芸学部文芸学科映画科中退
趣味は、宇宙考古学、ピラミッドパワー研究、超能力、彫金、切手収集、
特技は、語学(英・仏・独・伊・タイ語)、モータースポーツ(四輪・二輪)、ローラースケート、射撃、
だそうです。
ミッキー・カーチスの本名は?
ちなみに、ミッキー・カーチスさんの本名は、「マイケル・ブライアン・カーチス(Michael Brian Curtis)」で、帰化後の戸籍名は「加千須 ブライアン(かちす ブライアン)」だそうです。
また、作詞家としては「川路 美樹(かわじ みき)」、レーサーとしては「ブライアン・カーチス」、落語家としては「ミッキー亭 カーチス」、華道家としては「加千須 岩水(かちす がんすい)」と、使い分けているそうです。
(ミッキー・カーチスさんは、子どもの頃に、ハーフであることを理由にイジメられた経験から、日本語の名前と日本人に憧れて、子どもの頃に、「五十嵐信次郎(いがらし しんじろう)」という名前を自分で作ったそうで、2011年、主演映画「ロボジー」では、この「五十嵐信次郎」名義を使用しています)
ミッキー・カーチスは4歳の時に一家で上海に移住していた
ミッキー・カーチスさんは、イギリス人と日本人のハーフだった父親、バーナード三浦さんと、同じくイギリス人と日本人のハーフだった母親、百合子(リリー)・ブライアンさんの間に、長男として誕生したそうですが、
1941年に太平洋戦争が始まると、一家を受け入れてくれる疎開先が見つからず、1942年、ミッキー・カーチスさんが4歳の時、上海に移住し、共同租界で暮らし始めたそうです。
ミッキー・カーチスは小学生の時、上海で”顔が非国民”という理由でイジメに遭っていた
ただ、現地の国民学校では、”顔が非国民”という理由でイジメに遭ったそうで、さらには、ハーフでバイリンガルのお母さんもスパイに疑われ憲兵に睨(にら)まれたといいます。
そんな過酷な暮らしの中でも、お母さんは朝からジャズを歌い、いつも家には人が集まるなど、家の中の雰囲気が明るかったことが、ミッキー・カーチスさんの支えになったそうです。
(お母さんは、東京で映画雑誌の編集を手がけており、上海でも英字新聞社で映画の批評を書いていたそうです)
ミッキー・カーチスは幼少期に父親が失踪し継父らと共に日本に帰国していた
そんな中、戦時中、お父さんが失踪してしまい、その後、お母さんは、イギリス国籍の男性と再婚したそうで、終戦後の1945年秋(ミッキー・カーチスさん7歳)には、お母さん、お姉さん、継父とともに日本へ帰国し、東京荻窪の母方の親戚宅に身を寄せたそうです。
そして、1946年、東京千歳烏山(世田谷区)に転居すると、ようやく落ち着き、以降、千歳烏山で暮らしたのだそうです。
ミッキー・カーチスは小学5年生の時に和光学園小学校に編入しようやくイジメから開放されていた
その後、ミッキー・カーチスさんは、国民学校に通い始めたそうですが、名前が英語だったことやハーフだったことで、ここでもイジメを受けたそうで、やがて、不登校になると、小学校5年生まで自宅で家庭教師に勉強を教えてもらっていたそうです。
ただ、その後、小学5年生の時、私立の小中高一貫校の和光学園小学校に編入すると、自由な校風が肌に合い、以降、中学、高校と、楽しく、のびのびと過ごすことができたのだそうです。
ミッキー・カーチスは10代初めの頃に母親の言葉をきっかけにウクレレを始めていた
そんなミッキー・カーチスさんは、10代の初め頃、お母さんに、
男はウクレレが弾けないとダメ
と、言われたことから、ウクレレを始めたそうですが、
半年で覚えてしまったそうで、やがては、ギターを弾くようになったそうです。
ミッキー・カーチスは18歳の時にロカビリーバンド「クレイジー・ウエスト」を結成していた
また、ミッキー・カーチスさんは、おとなしく、シャイな少年だったそうですが、人を喜ばせることが好きだったため、高校生の時には、仲間とカントリー音楽のバンドを組み、米傷病兵の慰問を始めたそうで、
その後も、米軍キャンプを回ったり、ジャズ喫茶(ライブハウス)でも演奏するようになって人気を博すと、ロカビリーも演奏するようになったそうで、1957年3月(18歳)には、ロカビリーバンド「クレイジー・ウエスト」を結成したのだそうです。
「【画像】ミッキーカーチスの若い頃は?デビューから現在までの経歴を時系列まとめ!」に続く
高校在学中の1955年頃から、進駐軍のキャンプ廻りなどで音楽活動を始められると、1958年には、「ロカビリー3人男」として、日本にロカビリーブームを巻き起こし、1960年には、雪村いづみさんとのデュエット曲「恋の片道切符 …
1958年には、”ロカビリー3人男”として、日本にロカビリーブームを巻き起こすも、ロカビリーに早々に見切りをつけて、ジャズに転身すると、その後は、タレント、俳優、音楽プロデューサーとして、マルチな …